義民堀越三右衛門・三木市右衛門(浄土宗一行山光心寺)
寛文7年(1667)、上野国緑埜(みどの)村(群馬県藤岡市)の名主であった堀越三右衛門は、領主である旗本・倉橋内匠の重税に苦しむ村人を見かねて江戸に出て幕府に直訴したものの磔刑に処せられました。
続いて黒熊村の三木市右衛門も、寛文8年(1668)に直訴を企てて捕縛され、投獄された上、所払いとなりました。
同年、小串村の堀越三右衛門が処刑された場所に「万日堂」が建てられ、のち三木市右衛門の霊をあわせ弔うため「万日堂」が「光心寺」と改められました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代の緑埜郡緑埜村・三ツ木村と多胡郡黒熊村・小串村は、旗本の倉橋内匠助久盛が地頭として治めていましたが、寛文6年(1666)年から翌年にかけては凶作が続いたにもかかわらず、例年通りの年貢を要求したばかりか、年貢減免を願い出た百姓には年貢を増額するありさまでした。
このため、寛文7年(1667)、緑埜村の名主・堀越三右衛門は、妻子に別れを告げると、周辺の村々を代表して、幕府に倉橋の悪政を直訴することになりました。
江戸に上った堀越三右衛門は訴状を渡すことには成功したものの、捕らえられてその年の10月11日、小串松原において磔刑に処せられ、長男だけは村人に匿われて難を逃れたものの、次男や三男も斬り殺されたといわれています。
その後も倉橋内匠の苛斂誅求はやまなかったことから、黒熊村の名主・三木市右衛門も、堀越三右衛門の遺志を継いで、寛文8年(1668)に江戸に上って幕府に直訴をしようと企てて捕らえられ、8年間の入牢ののちに国払いとなってしまいました。
しかし、堀越三右衛門・三木市右衛門の義挙によって、二度までも百姓に訴えられた倉橋久盛は、寛文13年(1673)に改易となりました。
これは歴史の教科書などでも有名な「磔茂左衛門一揆」よりも以前のことで、江戸時代初期における「代表越訴型一揆」の典型とされています。
寛文8年(1668)、堀越三右衛門の処刑場となった小串松原には「万日堂」が建てられ、のち元禄13年(1699)、病没した三木市右衛門の霊をあわせ弔うため「万日堂」が「光心寺」と改められました。
光心寺は無住の寺院ですが、「古寺再生プロジェクト」により地域のヨガ教室などの活動拠点となるレンタルスペースとして整備され、現在は民間が管理しています。
浄土宗一行山光心寺へのアクセス
名称
- 浄土宗一行山光心寺 [参考リンク]
場所
- 群馬県高崎市吉井町小串796
(この地図の緯度・経度:36.251546, 139.022331) 備考
- 国道254号沿いに「義民堀越三右衛門 三木市右衛門之霊場」の看板と駐車場があります。
参考文献
- 干城録 (第9)
- 義民伝承の研究 (1985年)
- 藤岡市史 通史編 近世,近代・現代