義民のあしあと

鳴尾の義民(浄願寺(北郷開樋殉難者之碑))



安土桃山時代の天正年間、旱魃に悩む鳴尾村では、瓦林村から川の水を引こうとして申し入れをしますが拒否され、やむを得ず樽をくり抜いて瓦林村に無断で取水したところ、両村の百姓による乱闘騒ぎに発展しました。豊臣氏の奉行衆の裁決により、命よりも水を選んだ鳴尾村の25人が処刑され、江戸時代になって彼らを義民として顕彰する石碑が建てられました。



目次
  1. 浄願寺(北郷開樋殉難者之碑)の概要
  2. 浄願寺(北郷開樋殉難者之碑)へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

浄願寺(北郷開樋殉難者之碑)へのアクセス

名称 浄願寺(北郷開樋殉難者之碑)
場所 兵庫県西宮市甲子園六番町10-18
(地図の緯度・経度:34.723765, 135.366018)
備考
浄願寺境内の墓地内にあります。
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注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

義民伝承の内容と背景

武庫川は河床が周辺の平地よりも高い天井川のため、農業用水の取水には向かず、たびたび旱魃に悩まされていました。
こうした中で、武庫川から分かれた枝川の流域にあたる瓦林村が築堤をしたことがきっかけとなって、下流の鳴尾村では用水が難しくなりました。
天正19年(1591)の旱魃の際には、窮地に陥った鳴尾村の百姓が、枝川の川底を掘ってくり抜いた樽をいくつも並べ、瓦林村から無断で取水したため、両村の百姓らによる大乱闘事件に発展しました(「天正北郷樋事件」と呼ぶ)。

事件の顛末は豊臣政権に伝えられ、前田玄以、増田長盛、長束正家らの奉行衆による裁決の結果、鳴尾村の水利権はもとのとおり認められたものの、翌天正20年(1592)10月12日に鳴尾村の25人、瓦林村の26人が大坂で死罪となりました。
この事件の際、処理にあたった片桐且元に、樽の数だけ村人を処刑するといわれ、命と引き換えに水を選んで25人が自ら犠牲になったといわれています。
なお、同時代に奈良・興福寺の僧侶の多聞院英俊が記した『多聞院日記』には、「摂州ノ百姓共去夏水事喧嘩ノ衆八十三人ハタ物ニ被上了ト」とあります。
この日記では、喧嘩禁止を破った罪によって「ハタ物」、すなわち磔刑にされたのは総勢83人であったとされ、なかでも13歳の「童部」が父の身代わりに処刑されたのは「哀事」だとしています。

江戸時代の天明7年(1787)年、鳴尾村民が「北郷開樋殉難者之碑」を鳴尾の浄願寺境内に建立し、これらの義民を顕彰したほか、寺宝として南無阿弥陀仏の六字名号に殉難者の名前を記した掛け軸、水利権を認めた「豊臣氏奉行衆裁許状」(西宮市指定文化財)があります。
ほかにも昭和18年に北郷公園内に「義民顕彰碑」が建てられ、昭和45年にも八ツ松公園内に同様に石碑が建てられています。

参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)はリンク先下部に記載があります。リンクがない参考文献は、一般に流通していない稀覯本や私家本が多いものの、国立国会図書館で貸出をしている場合があります。

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