義民のあしあと

新井宿義民六人衆(義民六人衆の墓)

東京都大田区の善慶寺境内にある「義民六人衆の墓」


荏原郡新井宿村(現在の東京都大田区)では、領主である旗本の木原氏による苛斂誅求に対し、延宝2年(1674)、百姓らが19か条にわたる訴状を提出して年貢減免を願い出るものの認められませんでした。やむなく村の代表者6人が江戸に出て幕府に直訴しようとしますが、密告によって直前に捕らえられて斬首されました。その後、縁者が父母の墓と称して密かに6人の墓を造立し、今も善慶寺境内に残っています。


義民伝承の内容と背景

江戸時代、荏原郡新井宿村(現在の東京都大田区)は旗本の木原氏が知行を宛てがわれていましたが、4代目の木原義永の時代には、旱魃や水害が続いたにもかかわらず、重税を課して農民を苦しめていました。
そこで、延宝2年(1674)に百姓らが19か条にわたる訴状を領主に提出して年貢減免を願い出たものの、にべもなく却下されてしまいます。
この訴状は「新井宿村名主惣百姓等訴状写」として東京都の指定有形文化財となっていますが、借金をしたり田畑を取り上げられたりする者まで現れているという窮状をつづっています。

百姓らはやむなく将軍・徳川家綱に直訴することとなり、その代表として酒井権左衛門、間宮太郎兵衛、間宮新五郎、鈴木大炊之助、平林十郎左衛門、酒井善四郎の6名が江戸に赴きましたが、直訴する直前に密告によって捕らえられ、延宝5年(1677)の正月11日に江戸の木原邸で6人全員が斬首されたと伝えられています。

6人は罪人として表向きは法事や墓の造立が禁じられたため、村でも引き取り手がなく、善慶寺の日応上人が遺骸を引きとるところとなり、延宝7年(1679)、親類の間宮藤八郎が両親の墓と称して6人の墓石を善慶寺の参道入口付近に造立し、その下に6人の遺骨を密かに埋葬しました。
この墓は正面に父母の名が書かれているものの、裏面には義民6人の法名があったり、線香立てに6人の家紋が刻み込まれていたりするほか、正面の水入れに水を注ぐと、くり抜かれた石の間から裏面にも水がめぐり、6人を供養できるようになっています。

昭和47年の道路拡幅にともない発掘をしたところ、6人の義民の遺骨を納めたのり甕が出土し、伝説があやまりではなかったことが裏付けられました。
現在は改葬されて境内に墓が移されていますが、遺骨が入っていた素焼きの甕や遺骸を移送したときに使った馬の飼葉桶も善慶寺で保管しています。


義民六人衆の墓へのアクセス

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名称

義民六人衆の墓 [参考リンク]

場所

東京都大田区山王3-22-16
(この地図の緯度・経度:35.584148, 139.721991)

備考

境内左手の墓所の奥、「義民霊廟」という額が掲げられた覆屋のなかにあります。本来は父母の名が刻まれているほうが墓石の正面ですが、現在は義民の名が刻まれた裏面のほうをあえて正面にして建てられています。


参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。

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