首なし地蔵(牧の徳右衛門と山中一揆)

首なし地蔵 義民の史跡
多くの犠牲を出した一揆の有様を伝える石地蔵
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享保11年(1726)、津山藩主が夭折し減封が見込まれる中、大庄屋や藩役⼈が郷蔵の米を持ち出そうとした事件を契機として、この翌年にかけて美作国山中地方(今の岡山県北部)で4千⼈規模の惣百姓一揆「山中一揆」が発生します。津山藩は武力鎮圧の方針を決定し、その過程で捕らえた百姓を吟味なく処刑して峠道や河原に梟首しました。潜伏していた牧の徳右衛門、見尾の弥次郎ら頭取が捕らえられたことから一揆勢は瓦解し、最終的に51⼈処刑という大きな犠牲を払う結果となりました。現地には今でも「首なし地蔵」をはじめとするさまざまな遺跡が残ります。

義民伝承の内容と背景

山中(さんちゅう)一揆は、郡上一揆、三閉伊一揆と並び「江戸三大一揆」のひとつとされる大々的な犠牲者を出した百姓一揆で、享保11年(1726)から翌年正月にかけて、美作国津山藩の山中地区で起きたできごとです。

享保11年(1726)、津山藩は財政逼迫に対応すべく、新参の久保新平を勘定奉行に抜擢し、領内百姓に年貢の繰上げ納入や作付高への四歩加免(4%の増税)を命ずるなどして年貢増徴を図っていました。

このような中、11月11日に藩主・松平浅五郎が跡継ぎのないまま夭折し、末期養子を迎えて改易は免れたものの、石高が10万石から5万石に減封される事態が起こります。

11月21日夜、美作国大庭郡河内村(今の岡山県真庭市)の大庄屋らが、年貢米が保管されている郷蔵に預けていた自分米を勝手に出し入れしたことが他の百姓に露見し、これを契機として「山中一揆」が勃発しました。

百姓らは郷蔵を差し押さえ、大庄屋宅を打ちこわしてまわったため、津山藩から役人が派遣され、交渉により年貢減免や増税撤回が認められるとともに、責任者の久保新平も罷免され、一旦は終息するかに見えました。

ところが、大庭・真島両郡を中心とする山中地方の百姓たちは、この地域が津山藩領から幕府領になることを見越しており、納め過ぎた年貢の返還を求めて一揆を激化させたため、翌年正月5日、津山藩では山田文八・三木甚左衛門の両代官の意見を容れて、ついに武力討伐の方針を決定しました。

翌6日以降、山中地方には鉄砲や大筒で武装した藩士らが鎮圧隊として続々と送り込まれ、その途上で捕らえられた百姓らが正規の裁判によらずに土居河原などで斬首され、その首は見せしめとして峠道や河原に晒されました。

12日には土居村(今の真庭市)において一揆の首謀者である牧の徳右衛門らが捕らえられ、残りの百姓らの集団もほどなく瓦解して一揆は終わりを告げました。

そして享保12年(1727)3月12日、牧の徳右衛門・見尾の弥治郎の両人が津山城下を引回しの上、院庄滑川刑場において磔刑となり、山中一揆全体としては処刑された百姓の数が51人にも及ぶ惨事となりました。

このような顛末から、院庄の刑場近くの「首なし地蔵」は山中一揆の犠牲者に見立てて供養されたほか、他にも地元の人々によって多くの墓や供養塔、記念碑などが造立されています。

参考文献

『山中一揆と首なし地蔵』(畑輝忠 首なし地蔵保存会、1981年)
『山中一揆』(山中一揆義民顕彰会編 山中一揆義民顕彰会、1999年)
『真庭市の文化財』(真庭市教育委員会編 真庭市教育委員会、2010年)
『美作騒擾史料鈔』(寺阪五夫 作陽新報社、1976年)

首なし地蔵の地図とアクセス

名称

首なし地蔵

場所

岡山県津山市二宮地内

備考

中国自動車道「院庄インターチェンジ」から東へ車で5分、旧出雲街道沿いに地蔵が並ぶ。歩道なく狭隘につき注意。

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