義民のあしあと

山中一揆義民




義民伝承地の概要

郡上一揆、三閉一揆と並ぶ「江戸三大一揆」のひとつである山中一揆において処刑された西茅部出身者20人の墓。もとは別々の場所にあったものを集めたといい、田部堂のわきに石造の地蔵像が並んでいます。真庭市の指定重要文化財です。

川上村田部堂(田部義民の墓)の地図

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名称 川上村田部堂(田部義民の墓)
所在地 真庭市蒜山西茅部
備考 道路沿いに史跡を示す小さな看板があります。階段を上って高台の田部堂わきにあります。
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  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

山中(さんちゅう)一揆は、郡上一揆、三閉一揆と並ぶ「江戸三大一揆」のひとつとされる大々的な犠牲者を出した百姓一揆で、享保11年(1726)から翌年正月にかけて、美作国津山藩の山中地区で起きたできごとです。

当時の津山藩では財政の逼迫に対応すべく、久保新平を勘定奉行として年貢増徴を図っていましたが、当主の松平浅五郎が夭折し、末期養子を迎えて藩の存続を図ったものの、石高が10万石から5万石に減封されてしまいました。

このため、幕府に取り上げられる前に年貢米を大坂に回送して換金しようと、久世町の郷蔵から年貢米の運び出しをしたものの、地元の百姓に見つかり、これがきっかけで一揆が勃発しました。

百姓らは運び出された米俵を差し押さえるとともに、大庄屋宅などを打ちこわしてまわったため、藩の役人が派遣され、交渉により年貢減免や増税撤回が認められるとともに、責任者として久保新平も罷免され、いったんこの件は終息しかけました。

ところが、津山藩領から天領になることを見越した山中地方の百姓は、納め過ぎた年貢の返還を求めて一揆を激化させたため、翌年正月、山中地方に鉄砲や大砲で武装した藩士らが鎮圧隊として送り込まれ、その途上で捕らえられた百姓らが新庄村今井河原などで斬首され、首は峠道に晒されました。

土居村(いまの真庭市禾津)では百姓一揆の首謀者として牧の徳右衛門らが捕らえられ、残りの百姓らの集団も瓦解して、一揆は終わりを告げましたが、事件後の処理として、徳右衛門は津山城下を引き回しの上、院庄滑川刑場において磔刑となったほか、処刑された百姓らは51名にも及ぶ惨事となりました。

このような山中一揆の顛末から、のちに地元の人々によって、徳右衛門御前、大林寺妙典塚、首なし地蔵、社田の義民の墓などといった、犠牲者らを供養するための墓や供養塔が各地に造立されたほか、事件の記録も多数つくられています。

参考文献・参考資料


リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されています)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱わない稀覯本や内部配布物などですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

 

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