義民のあしあと

土川平兵衛(天保義民之碑)



天保13年(1842)、飢饉に陥った甲賀郡、野洲郡、栗太郡の百姓4万人が徴税強化を目指す幕府の検地に反対して一斉蜂起した「近江天保一揆」では、検地の「十万日日延べ」の証文を勝ち取ったものの、一揆の指導者である土川平兵衛ら11人が江戸送りとなり、過酷な拷問で命を落としました。明治時代になって、これらの義民を顕彰するため、いまの湖南市三雲の地に「天保義民之碑」が建てられました。



目次
  1. 天保義民之碑の概要
  2. 天保義民之碑へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

天保義民之碑へのアクセス

名称 天保義民之碑
場所 滋賀県湖南市三雲
(地図の緯度・経度:34.982833, 136.120639)
備考
道路入口には常夜灯、「天保義民碑」および「ビジネス旅館天保閣」の看板があり、踏切を渡ってすぐです。碑の前は広場状になっています。
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注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

義民伝承の内容と背景

江戸後期の天保年間、全国的に「天保の飢饉」が発生しましたが、近江国においても、自然災害による水田の損壊や食料不足により、村々は騒然とした状況でした。
そのような中で、農村における徴税強化の一環として、近江国では幕府主導による検地が強行され、検地奉行として市野茂三郎が派遣されました。
この検地の過程では、意図的に長さの短い間尺を使った測量による無理な石高の捻出、賄賂の強要などもありました。

このことに対して、天保13年(1842)10月15日、三上村の庄屋である土川平兵衛をはじめとする甲賀郡、野洲郡、栗太郡の百姓らは一斉に抗議し、「近江天保の一揆」(甲賀騒動)が巻き起こりました。
一揆勢は水口藩の崇敬社であった矢川神社に集合すると、野洲川沿いを進んで検地役人の陣屋があった三上村を包囲し、その数は4万人にも膨れ上がりました。

市野茂三郎は三上山に逃れ、百姓側は陣屋に残った検地役人から検地の「十万日日延べ」の証文を勝ち取り、所期の目的を達成しました。
そのかわりとして、後日京都町奉行所に多くの百姓が捕らえられたほか、一揆の指導者である土川平兵衛ら11人は江戸送りとなり、過酷な拷問で裁きを待たずに命を落とし、その罪は獄門に値するとされました。
土川平兵衛の妻子も叩きの上で所払いとなるなど、理不尽な仕打ちを蒙りました。

明治時代になって土川平兵衛はようやく大赦となったことから、これらの義民を顕彰するため、百姓らが野洲川を渡った場所という湖南市三雲にある伝芳山に、明治31年(1898)、高さ10メートルほどの「天保義民之碑」が建てられました。

参考文献・参考資料


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