義民のあしあと

土川平兵衛(天保義民之碑)


天保13年(1842)、飢饉に陥った甲賀郡、野洲郡、栗太郡の百姓4万人が徴税強化を目指す幕府の検地に反対して一斉蜂起した「近江天保一揆」では、検地の「十万日日延べ」の証文を勝ち取ったものの、一揆の指導者である土川平兵衛ら11人が江戸送りとなり、過酷な拷問で命を落としました。明治時代になって、これらの義民を顕彰するため、いまの湖南市三雲の地に「天保義民之碑」が建てられました。


目次
  1. 天保義民之碑の概要
  2. 天保義民之碑へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

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天保義民之碑へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

天保義民之碑 [参考リンク]

場所

滋賀県湖南市三雲
(この地図の緯度・経度:34.982772, 136.120879)

備考

「天保義民碑」は、三雲駅の東側の高台にあります。駅前の道路(旧東海道)を東に進むと石碑への進入路入口に江戸時代の「横田常夜灯」と、「天保義民碑」および「ビジネス旅館天保閣」の看板があり、看板に従い踏切を渡った先になります。

「保民祠」及び「天保義民碑」(緯度経度 35.04960,136.0313)は、御上神社近くの三上山登山口付近にあります。国道8号の三上交差点に「天保義民碑」「三上山登山口」の道路標識が建っていますので、これを目印に交差点を曲がります。しばらく進むともう1か所に同様の道路標識がありますので、この交差点も曲がって150メートルほどで現地に到着できます。普通車5台ほどの舗装された駐車場があります。

「土川平兵衛の墓」(緯度経度 35.0529, 136.0205)は、御上神社前の県道504号線を800メートルほど北西に進んだ共同墓地内にあり、旧野洲町観光協会が案内板を建てています。なお、この墓は本文にもあるとおり比較的新しい時代のものです。


義民伝承の内容と背景

江戸後期の天保年間、全国的に「天保の飢饉」が発生しましたが、近江国においても、自然災害による水田の損壊や食料不足により、村々は騒然とした状況でした。
そのような中で、農村における徴税強化の一環として、近江国では幕府主導による検地が強行され、検地奉行として市野茂三郎が派遣されました。
この検地の過程では、意図的に長さの短い間尺を使った測量による無理な石高の捻出、賄賂の強要などもありました。

このことに対して、天保13年(1842)10月15日、三上村の庄屋である土川平兵衛をはじめとする甲賀郡、野洲郡、栗太郡の百姓らは一斉に抗議し、「近江天保の一揆」(甲賀騒動)が巻き起こりました。
一揆勢は水口藩の崇敬社であった矢川神社に集合すると、野洲川沿いを進んで検地役人の陣屋があった三上村を包囲し、その数は4万人にも膨れ上がりました。

市野茂三郎は三上山に逃れ、百姓側は陣屋に残った検地役人から検地の「十万日日延べ」の証文を勝ち取り、所期の目的を達成しました。
そのかわりとして、後日京都町奉行所に多くの百姓が捕らえられたほか、一揆の指導者である土川平兵衛ら11人は江戸送りとなり、過酷な拷問で裁きを待たずに命を落とし、その罪は獄門に値するとされました。
土川平兵衛の妻子も叩きの上で所払いとなるなど、理不尽な仕打ちを蒙りました。

明治時代になって土川平兵衛はようやく大赦となったことから、これらの義民を顕彰するため、百姓らが野洲川を渡った場所という湖南市三雲にある伝芳山に、明治31年(1898)、高さ10メートルほどの「天保義民之碑」が建てられました。

ほかにも、国宝・御上神社に近い滋賀県野洲市側の三上山の登山口付近には、明治26年(1893)に「保民祠」(ただし、現在のものは平成4年再建)が、明治28年(1895)にそのすぐ脇に「天保義民碑」が建立されています。

最近でも「近江天保の一揆」から140年目にあたる昭和57年(1982)に、御上神社の近くの共同墓地内に土川平兵衛の墓が建立され、郷土の義民として顕彰が行われています。


参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社)はリンク先下部に記載があります。リンクがないものは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で収蔵している場合があります。

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