義民藤田民次郎

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義民伝承のある場所の概要

文化10年(1813)、弘前藩の農民2000人が城下に押しかけ、冷害による年貢減免を求めて強訴(民次郎一揆)し、藩主・津軽寧親の英断により、年貢の3年減免は認められたものの、首謀者として名乗り出た鬼沢村の藤田民次郎が責任を負って斬首されました。この藤田民次郎を義民として顕彰するため、生誕の地に顕彰碑が建てられました。


 義民藤田民次郎顕彰之碑の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 義民藤田民次郎顕彰之碑
所在地 青森県弘前市鬼沢字菖蒲沢109-4
リンク [関連サイトに遷移]
備考 「義民藤田民次郎出生之地碑」「義民藤田民次郎顕彰之碑」は弘前市立自得小学校校庭に隣接して建てられています。藤田民次郎が一揆の際に祈願した「鬼神社」や藤田民次郎の墓も、地図記載のとおり近隣にあります。
  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。


解説

寛政4年(1792)、ロシアの使節ラックスマンが通商を求めて日本に来航し、松前藩で応対にあたりましたが、以後は地理的に近い弘前藩が幕府から蝦夷地警備を命ぜられたため、藩の出費がかさんでいました。
その後、幕府の通商拒絶にいらだつロシア人による蝦夷地の襲撃事件(文化露寇)が相次ぐなどしたため、弘前藩では年貢の増徴が行われています。
このようななかで、津軽地方では冷害による米の不作が深刻化し、ついに文化10年(1813)9月23日、百姓2000人が城下に押しかけて、作柄の調査、役人の不正の取り締まり、年貢の減免などを求める強訴を行いました。
その結果として、藩主・津軽寧親は、作柄の調査や蔵米の放出、3年間の年貢減免などを行い、百姓の窮状を救おうとしましたが、いっぽうにおいて、首謀者として名乗り出た鬼沢村の藤田民次郎は、すべての責任を背負い、取上の仕置場(いまの弘前市取上の貴船神社)において、22歳の若さで斬首されてしまいます。
藤田民次郎の首は、岩木山が超える故郷鬼沢村の浄土宗龍味庵に埋葬され、墓がつくられたほか、近くの自得小学校には「義民藤田民次郎出生之地碑」「義民藤田民次郎顕彰之碑」が建てられています。
また、一揆の際に藤田民次郎が祈願をしたという「鬼神社」(きじんじゃ)も、この龍味庵に隣接しています。


参考文献

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リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されている)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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