与兵衛明神(増田与兵衛の越訴)

与兵衛明神 義民の史跡
庄屋の不正を告発して処刑された父子を祀る

天和2年(1682)信濃国小県郡入奈良本村(今の長野県小県郡青木村)百姓・増田与兵衛は、庄屋の不正を上田藩主に直訴して処刑されたと伝わっています。現地には与兵衛を祀る「与兵衛明神」の小祠があります。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代初期の天和2年(1682)、信濃国小県郡浦野組の入奈良本村では、庄屋が年貢米を定められた量以上に百姓から取り立てて上田藩役人への賄賂に充てるなどしていたため、同じ入奈良本村の百姓であった増田与兵衛が庄屋の不正を上田藩主の仙石政明に越訴しました。
この仙石政明は、甲斐武田氏の家臣であった真田信之が信州松本藩に移封されたあと、信濃国小諸藩から転封してきた仙石氏の3代目の藩主に当たります。

藩主によって増田与兵衛の願いは聞き届けられ、庄屋は処罰されたものの、増田与兵衛本人とその子あわせて3人は、10月19日に夫神(おかみ)川原において処刑されることになりました。

その際、藩主は処刑の取りやめを命じる使者を発遣したものの、はるか彼方で馬上から「その刑待て」と叫ぶ使者の姿を見た刑吏が「早く斬れ」の合図と早合点し、夫神川原に到着する前に斬られてしまったという伝説も残されています。

藩主は増田与兵衛を悼んで祭祀料を下賜し、下奈良本村の滝仙寺に墓が造られ、その後宝暦9年(1759)になると、入奈良本村・下奈良本村の両村により氏神の「与兵衛明神」として祀られました。

江戸時代を通じて上田藩では百姓一揆が多く、特に現在の長野県小県郡青木村の地域は、この増田与兵衛の一件を嚆矢として、近隣から「夕立と騒動は浦野組から」といわれるほどに多発していました。

このような背景から、今でも長野県小県郡青木村は「義民の郷」を名乗っており、村内には全国でも珍しい義民に的を絞った展示施設である「青木村義民資料展示室」が開館しています。

参考文献

『上田藩農民騒動史』(横山十四男 上田小県資料刊行会、1968年)
『信濃の百姓一揆と義民伝承』(横山十四男 郷土出版社、1986年)
『青木村誌』歴史編上(青木村誌編纂委員会編 青木村、1994年)

与兵衛明神へのアクセス

名称

与兵衛明神

場所

長野県小県郡青木村大字奈良本地内

備考

上信越自動車道「上田菅平インターチェンジ」から車で40分、長野県道181号下奈良本豊科線沿いの増田本店から恋渡神社方面へ坂道を300メートル登ると、擁壁上に鎮座している。

関連する他の史跡

❶天和の義民増田与兵衛の墓

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