義民のあしあと

天和の義民増田与兵衛(与兵衛明神)




「夕立と騒動は青木から」といわれた百姓一揆の多発地帯である現在の長野県小県郡青木村では、江戸初期の天和2年(1682)、増田与兵衛が庄屋の不正を告発して上田藩主の仙石政明に越訴する事件がありました。
増田与兵衛の願いは聞き届けられたものの、越訴をした増田与兵衛は夫神川原で処刑され、滝仙寺に墓が建てられるとともに、後に家の近くに「与兵衛明神」として祀られました。


目次
  1. 与兵衛明神の概要
  2. 与兵衛明神へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と歴史的背景
  4. 参考文献


与兵衛明神へのアクセス

名称 与兵衛明神
場所 長野県小県郡青木村字入奈良本地内
(地図の緯度・経度:40.68578, 140.41395)
備考
舗装道沿いの丘に「与兵衛明神」の小さな石祠と村の史跡の標柱があります。道の途中には別の義民(「文化の義民」)を祀る「勇吉宮」もあります。
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注意
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義民伝承の内容と歴史的背景

江戸時代の上田藩では百姓一揆が多く、特に現在の長野県小県(ちいさがた)郡青木村の地域は、近隣から「夕立と騒動は青木から」といわれるほどに、その中心となっていました。

江戸時代初期の天和2年(1682)、庄屋は年貢米を定められた量以上に百姓から取り立てて、上田藩の役人への賄賂に充てるなどしていたため、入奈良本村の百姓であった増田与兵衛は、庄屋の不正を信州上田藩主の仙石政明(せんごく まさあきら)に越訴しました。
この仙石政明は、武田氏の家臣であった真田信之が信州松本藩に移封されたあと、信濃小諸藩から転封してきた仙石氏の3代目の藩主にあたります。

藩主によって増田与兵衛の願いは聞き届けられ、庄屋は処罰されたものの、越訴であったために増田与兵衛本人とその子あわせて3人が夫神(おかみ)川原で処刑されました。
藩主は増田与兵衛を悼んで祭祀料を下賜し、下奈良本の滝仙寺に墓が建てられ、その後宝暦9年(1759)になると、氏神の「与兵衛明神」として祀られたといいます。

このような背景から、いまでも長野県小県郡青木村は「義民の郷」を名乗っており、村内には全国でも珍しい義民に的を絞った展示施設である「青木村義民資料展示室」があります。

参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)はリンク先下部に記載があります。リンクがない参考文献は、一般に流通していない稀覯本や私家本が多いものの、国立国会図書館で貸出をしている場合があります。

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