天和の義民増田与兵衛(与兵衛明神)
「夕立と騒動は青木から」といわれた百姓一揆の多発地帯である現在の長野県小県郡青木村では、江戸初期の天和2年(1682)、増田与兵衛が庄屋の不正を告発して上田藩主の仙石政明に越訴する事件がありました。
増田与兵衛の願いは聞き届けられたものの、越訴をした増田与兵衛は夫神川原で処刑され、滝仙寺に墓が建てられるとともに、後に家の近くに「与兵衛明神」として祀られました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代の上田藩では百姓一揆が多く、特に現在の長野県小県(ちいさがた)郡青木村の地域は、近隣から「夕立と騒動は青木から」といわれるほどに、その中心となっていました。
江戸時代初期の天和2年(1682)、庄屋は年貢米を定められた量以上に百姓から取り立てて、上田藩の役人への賄賂に充てるなどしていたため、入奈良本村の百姓であった増田与兵衛は、庄屋の不正を信州上田藩主の仙石政明(せんごく まさあきら)に越訴しました。
この仙石政明は、武田氏の家臣であった真田信之が信州松本藩に移封されたあと、信濃小諸藩から転封してきた仙石氏の3代目の藩主にあたります。
藩主によって増田与兵衛の願いは聞き届けられ、庄屋は処罰されたものの、越訴であったために増田与兵衛本人とその子あわせて3人が夫神(おかみ)川原で処刑されました。
藩主は増田与兵衛を悼んで祭祀料を下賜し、下奈良本の滝仙寺に墓が建てられ、その後宝暦9年(1759)になると、氏神の「与兵衛明神」として祀られたといいます。
このような背景から、いまでも長野県小県郡青木村は「義民の郷」を名乗っており、村内には全国でも珍しい義民に的を絞った展示施設である「青木村義民資料展示室」があります。
与兵衛明神へのアクセス
名称
- 与兵衛明神 [参考リンク]
場所
- 長野県小県郡青木村字入奈良本地内
(この地図の緯度・経度:36.3466, 138.099) 備考
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わかりにくい場所ですが、国道143号「青木」交差点から県道12号丸子信州新線に入って南西に2.5キロメートルほど進むと、県道181号下奈良本豊科線に接続する丁字路があります。
丁字路には縁結びスポットとして注目される「恋渡神社」や「青木の森別荘地」などの看板が出ていますので、ここを曲がって県道181号に入り、さらに南西に2キロメートル近く道なりに進むと、酒類・食料品店「増田本店」の脇に再び「恋渡神社」の看板とともに「義民 与兵衛 勇吉 史跡」の看板が出現します。
看板に従い舗装された急な坂道を登ると、途中のヘアピンカーブに別の義民(「文化の義民」)を祀る「勇吉宮」があり、さらに40メートルほど上の高台に「与兵衛明神」の小さな石祠と村の史跡の標柱があります。
参考文献
- 上田藩農民騒動史 (1968年)
- 『信濃の百姓一揆と義民伝承』(横山十四男著 郷土出版社、1986年)
- 『長野県史』通史編 第6巻(近世3)(長野県編 長野県史刊行会、1989年)