佐倉宗吾

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義民伝承のある場所の概要

承応元年(1652)、公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主・木内惣五郎は、重税にあえぐ百姓の苦悩を佐倉藩に訴えるものの聞き届けられず、4代将軍・徳川家綱に直訴しました。その結果、年貢減免が認められたものの、罪科により磔刑となり、遺骸は東勝寺の澄祐和尚によって公津ヶ原刑場に埋葬されました。木内惣五郎は怨霊化して佐倉藩主・堀田正信を改易に追い込んだとされ、後の時代に藩公認で慰霊され、「宗吾」の諡がつけられたことから、惣五郎を祀る東勝寺も「宗吾霊堂」と呼ばれるようになりました。


 宗吾霊堂の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 宗吾霊堂
所在地 千葉県成田市宗吾1-558
リンク [関連サイトに遷移]
備考 京成「宗吾参道駅」から徒歩20分。成田駅からバス10分で「宗吾霊堂」下車。境内には後世につくられた佐倉宗吾の墓所があります。

解説

承応元年(1652)、公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主であった木内惣五郎は、重税にあえぐ百姓の苦悩を佐倉藩に訴えますが聞き届けられず、やむなく上野寛永寺に参詣する途上にあった4代将軍・徳川家綱に直訴します。

その結果として、百姓の申状は聞き届けられ、3年間の年貢減免が認められたものの、惣五郎は罪科により磔となり、その子も死罪となりましたが、遺骸は東勝寺の澄祐和尚によって公津ヶ原刑場に埋葬され、木内惣五郎を祀る東勝寺も「宗吾霊堂」と呼ばれるようになりました。

木内惣五郎の亡霊は、佐倉藩主・堀田正信を改易・自殺へと追い込んだとされ、堀田正信の弟・堀田正俊の末裔である老中の堀田正亮が、延享3年(1746)に出羽山形藩から下総佐倉藩11万石に移封されると、将門山に「口之宮明神」の社を創建して木内惣五郎を祀るとともに、百周忌に「宗吾」と追諡してその霊を慰めました。

文化3年(1804)には、ときの藩主・堀田正時から、経済的に困窮した佐倉宗吾の子孫・木内利左衛門を救うためとして、田高5石余(7反1畝15歩)が与えられ、今も宗吾旧宅から成田ニュータウンに至る途中の道路沿いにその水田があります。

なお、江戸時代の公津村に惣五郎という名の有力農民がいたことは、宗吾霊堂の「霊宝館」に収蔵されている「公津村名寄帳」などの史料から確認できるものの、惣五郎一揆があったかどうかは確認できないといいます。

いずれにしても、佐倉藩も公認した佐倉宗吾の伝説は、いまの佐倉市にある勝胤寺の地蔵堂で旅の六部に庵主が物語ったという形式の『地蔵堂通夜物語』などの文芸としてまとめられ、江戸幕末には歌舞伎の「東山桜荘子」(ただし、公儀を憚り、主人公は浅倉当吾で、足利時代の話として脚色されている。)の題材として採り上げられて大ヒットしたほか、「佐倉義民伝」として明治時代の自由民権運動にも大きな影響を与えました。


参考文献

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リンクがなく書誌情報がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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