畑中喜右衛門(畑中喜右衛門の碑)
江戸時代に氾濫を繰り返した子吉川では、沿岸の住戸がしばしば危険にさらされたことから、明暦年間に名主の畑中喜右衛門が代官所に河川改修を直訴しますが、かえって農民扇動の罪をもって処刑されてしまいます。
畑中喜右衛門は処刑されるに際して、我が魂は此の地にとどまり川の流れを変えるであろうと遺言し、後の洪水によってその遺言のとおり河道が変わり、一帯の新田開発が進みました。
このため、村人たちは畑中喜右衛門の処刑された場所に供養碑を建てて祀り、現在では由利本荘市の史跡に指定されています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代、日本海に注ぐ子吉川(こよしがわ)の河口南岸には本荘藩の古雪(ふるゆき)港、北岸には亀田藩の石脇(いしわき)港が開かれ、西廻り航路を通る北前船の寄港地として栄えました。
このため、子吉川は両港で荷降ろしされた物資を内陸の矢島藩に運んだり、逆に内陸から米や木材などの特産品を港まで運んだりする上で、たいへん重要な役割を果たしていました。
しかし、この子吉川は大雨による増水でしばしば氾濫しており、そのたびに河岸が侵食されて、明暦年間には吉沢集落の百姓屋敷12戸が危険にさらされるようになります。
そこで、前郷村名主の畑中喜右衛門(きえもん)が、たびたび代官の奥山源兵衛に訴え出て河川改修を要求しますが、かえって農民を扇動して強訴に及んだとして処刑されることになりました。
畑中喜右衛門が処刑されたのは万治元年(1658)のことであり、願いによって子吉川が見える芋が台の地が刑場に選ばれます。
畑中喜右衛門は処刑されるにあたって、我が魂は此の地にとどまり川の流れを変えると遺言し、その後の洪水によって、遺言のとおりに河道が変わり、今日のような水田地帯になったとされています。
貞享3年(1686)、吉沢の人々は畑中喜右衛門を顕彰して芋が台に碑を建立するとともに、毎年命日である9月7日には慰霊祭を営むようになり、これは現在も続いています。
「貞享三丙寅年九月七日」の銘が残る畑中喜右衛門の碑は、子吉川の河川改修の歴史を伝える貴重なものであることから、由利本荘市の史跡として指定されています。
畑中喜右衛門の碑へのアクセス
名称
- 畑中喜右衛門の碑 [参考リンク]
場所
- 秋田県由利本荘市吉沢芋ケ台地内
(この地図の緯度・経度:39.264770, 140.119249) 備考
- 国道108号矢島街道沿いに文化財愛護シンボルマークが付いた「畑中喜右衛門の碑」の看板が立ち、側道に入るとすぐの場所にあります。