義民のあしあと

福田与惣左衛門(助六の首塚)


茨城県かすみがうら市の志筑地区は、江戸時代には旗本本堂氏の領地となっていましたが、領民に過重な年貢を課しており、あまつさえ水戸街道の稲吉宿の助郷役の負担もあり、安永7年12月(1779年2月)、ついに耐えきれなくなった下佐谷村はじめ25か村の農民たちが本堂氏の江戸屋敷に強訴を行いました。首謀者として下佐谷村の名主・福田与惣左衛門、通称助六が捕らえられて獄門となり、「助六の首塚」や「助六地蔵」が営まれました。


目次
  1. 助六の首塚の概要
  2. 助六の首塚へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

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助六の首塚へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

助六の首塚 [参考リンク]

場所

茨城県かすみがうら市下佐谷770-1
(この地図の緯度・経度:36.1516, 140.2102)

備考

「助六の首塚」は、助六の子孫が経営する福田グリーン農園(茨城県かすみがうら市下佐谷777-1)敷地内の屋敷墓にあります。
茨城県道64号土浦笠間線沿いの農園入口の長屋門脇に「助六の首塚」の由来を記したかすみがうら市教育委員会の案内板があり、この門の左手の農耕路を150メートルほど奥に(西方向に)進むと「町指定文化財 助六の首塚」の看板が見えます。
現地には「福田助六之墓」と刻まれた墓標がありますが、その手前にある文字の書かれていないお椀形の自然石のほうが、ここでいう「助六の首塚」です。
一念寺裏手の公道からも行けますが、農園内を進む場合は持ち主に一声掛けて許可を得ておくことが望まれます。


また、「助六地蔵」とされる地蔵菩薩立像は、閑居山の百体磨崖仏に向かう登山道沿い(36.1867 140.2121)にあり、現地に「助六地蔵」の木製看板が建てられています。



義民伝承の内容と背景

茨城県かすみがうら市の志筑地区は、江戸時代には旗本・本堂氏の領地となっていました。本堂氏はもとは出羽国山本郡(現在の秋田県仙北郡美郷町)の小領主であったものの、関ヶ原の戦い後、秋田に移封となった佐竹氏と入れ違えに、旗本として現在のかすみがうら市に8500石の領地を与えられ、志筑藩が成立します。

しかし、実際の石高が家格と見合わなかったことから、これを埋め合わせるために領内に過重な年貢を課しており、あまつさえ水戸街道の稲吉宿の助郷役の負担もあり、領民たちは疲弊していました。

そのため、近隣の村々にも加助郷の負担があり、これらの村々で金200両を集めて人足を雇い入れ、実際に村人が労働する代わりにしようとしたところ、志筑藩にそっくり取り上げられてしまったため、安永7年に「安永の一揆」が勃発します。

下佐谷村の名主(または百姓代ともいわれる)であった福田与惣左衛門(通称で助六)らは、高札場に張り紙をして志筑陣屋の非法を訴えたものの埒が明かず、25か村の百姓らとともに嶋木(四万騎)原に集合し、安永7年12月(1779年2月)、江戸表の本堂氏の屋敷に強訴しました。

その結果、助六らは逮捕され、助六だけが獄門、他は永牢などの罪科に問われ、助六は翌年の安永8年(1779)9月16日、通称「首切山」とされる志筑藩の刑場において、郡奉行・永田元右衛門ら検視役人の立会いのもと、太刀取・杉山元右衛門の手によって斬首され、その首は街道筋に3日間にわたって晒されました。

その後、義民助六を弔うためとして、閑居山に「助六地蔵」が営まれたほか、下佐谷の一念寺に墓碑、福田家墓地に「助六の首塚」も残され、うち「助六の首塚」はかすみがうら市の指定文化財(史跡)となっています。



参考文献・参考資料

  • 茨城の百姓一揆と義民伝承
  • 『茨城県史料』近世社会経済編3(茨城県立歴史館 茨城県、1988年)
  • 『千代田村史』 (千代田村史編さん委員会 千代田村教育委員会、1970年)

書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社)はリンク先下部に記載があります。リンクがないものは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で収蔵している場合があります。

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