義民地蔵(磯部村清太夫と山外郷一揆)

義民地蔵 義民の史跡
一揆の犠牲者を供養する路傍の石地蔵
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寛延2年(1749)、笠間藩は凶作下で定免法への切替えを強行したため、常陸国茨城郡磯部村(今の茨城県桜川市)名主で磯部神社神主の清太夫ら山外郷27か村1千人が笠間城下で強訴に及びました。藩は一旦は要求を認めるものの、その後態度を一変して清太夫らを処刑しました。この「山外郷一揆」により犠牲となった清太夫らは義民として崇められ、小塩集落に「義民地蔵」が建てられました。

義民伝承の内容と背景

日向延岡藩の第2代藩主・牧野貞通は、京都所司代としての実績が認められ、延享4年(1747)に常陸笠間藩8万石に国替えとなりますが、病気のため寛延2年(1749)に若くして亡くなります。この時期、笠間藩領では凶作続きでしたが、国替えによる入用に充てるため、藩は豊凶にかかわらず税率を一定にする定免法に切り替えて百姓から重税を取り立てようとしていました。

常陸国茨城郡磯部村名主で磯部神社の神主でもあった磯部清太夫は、亀岡村名主の萩原太郎左衛門と相談し、大岡村の鹿島神社に山外郷の百姓を集め、富谷村の藤井佐太郎(いずれも今の桜川市)を頭取として、年貢減免を笠間藩に要求しようと決議します。

同年10月14日、山外郷27か村から実らない稲束を手にした千人ほどの百姓が集まり、笠間城下に押し寄せ強訴を行ったため、病没による藩主不在のなか、藩ではいったんは年貢の延納を認め、百姓らを帰村させる措置をとります。

これを「山外郷一揆」といいますが、その後笠間藩では幕府勘定奉行・神尾春央に一揆への対応を照会した結果を受けて態度を翻し、一揆の首謀者を捕縛の上、磯部村清太夫、亀岡村太郎左衛門は獄門、富谷村佐太郎を死罪として、定免法への切り替えを強行します。

清太夫には「村々百姓為及嗷訴、名主役ニも有之、重々之罪科ニヨツテ令死罪、獄門ニ懸ル者也」との申渡しがあり、笠間藩の牢屋敷内で斬首の後、その首は山外郷の境界にあたる加茂部村往還松原の枕石の上に晒され、財産も闕所(没収)とされたといいます。

磯部清太夫らが処刑されたのは寛延3年(1750)2月2日のことですが、寛延4年(1751)には年貢の軽減が決まるなどしたことから、百姓らは山外郷一揆で犠牲となった清太夫らに感謝し、小塩集落に石地蔵を建てて「義民三尊地蔵菩薩」として祀りました。

また、昭和9年(1934)には、この義民地蔵の前に「寛延義民地蔵尊碑」も建てられ、郷土の義民たちの顕彰が行われています。

参考文献

『茨城百姓一揆』(植田敏雄 風濤社、1974年)
『茨城の百姓一揆と義民伝承』上(木村由美子 筑波書林、1985年)
『笠間市史』上巻(笠間市史編さん委員会 笠間市、1993年)

義民地蔵の地図とアクセス

名称

義民地蔵

場所

茨城県桜川市小塩地内

備考

北関東自動車道「笠間西インターチェンジ」から車で10分。「桜川警察署小塩駐在所」の右手に旧岩瀬町が設置した木製の史跡案内板があります。

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