義民四人衆

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義民伝承のある場所の概要

江戸時代の総社市新本地区は、岡田藩の領地でしたが、領民の入会地であった大平山、春山が「お留山」として藩に取り上げられ、樹木の伐採・運搬の賦役まで課せられたことから、これに反対した領民たちは、惣代4名を江戸藩邸にいる藩主・岡田長救のもとに送って直訴に及びました。
その結果として、入会地の藩有化と賦役は解消されたものの、代表者4名は処刑、その家族らは追放となりました。
これを「新本義民騒動」といいますが、領民らは4名を「義民四人衆」として義民社に祀り、その後も義民祭や義民碑により顕彰されています。


 義民碑の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 義民碑
所在地 岡山県総社市新本地内
リンク [関連サイトに遷移]
備考 総社市役所西出張所(義民会館)から東に100メートル程度進んだ県道80号沿いに「義民碑」(現在のものは犬養毅が揮毫)、西へ1キロほどの西明寺内に「義民埋葬地」、隣接する新本小学校内に「義民社」の小さな祠があります。

解説

江戸時代の総社市新本地区は、備中国下道(しもつみち)郡新庄村、本庄村といい、岡田藩と呼ばれる1万石の小藩の領地でしたが、領民の入会地であった大平山、春山が「お留山」として藩に取り上げられ、樹木の伐採が禁止されました。
これらの山では、農民が下草を刈って肥料や牛馬の飼い葉に使ったり、薪を採ったりしていましたが、それができなくなってしまったほか、樹木の伐採と陣屋(現在の岡田小学校)までの運搬の賦役まで課せられ、その手間賃はわずかで、生活に大きな支障を来たすことになりました。

そこで、これに反対した新庄村と本庄村の203名は寄合を持ち、起請文に血判の上でお留山を奪還することを決議し、蔵鏡寺など三ヶ寺の住職の斡旋もあって、享保2年(1717)、藩への嘆願の趣旨が一部認められ、山は開放されました。

その後、許可を得ずに木々を伐採したとして藩から疑いがかかり、庄屋が投獄されてしまったため、藩と村民との対立が激化し、ついに享保3年(1718)、村民の惣代として、松森六蔵(津梅地区)、荒木甚右衛門(小下)、森脇喜惣治(小砂)、川村仁右衛門(稲井田)の4名が江戸藩邸にいる岡田藩5代藩主・岡田長救(ながひら)のもとに送られ、直訴に及ぶところとなりました。

その結果として、入会地の藩有化と賦役は解消されたものの、代表者4名は打ち首、その家族らは追放と決まり、享保3年6月、新本川の飯田屋河原で処刑が行われました。

これら一連の顛末を「新本義民騒動」(しんぽんぎみんそうどう)といいますが、領民らは4名を「義民四人衆」と呼び、新庄村の西明寺に墓を建て(総社市指定史跡の「義民埋葬地」。ただし、川村仁右衛門は別の場所にある川村家墓地内)、西明寺の裏山の「義民社」の小祠に祀りました。
また、処刑場の飯田屋河原の近くには「義民碑」が建てられ、岡山出身の総理大臣・犬養毅が揮毫をしています。
大正6年(1917)に「義民四人衆二百年祭」が行われて以後、毎年夏に「義民祭」が行われるようになり、現在でも新本享保義民奉賛会などによって顕彰されているほか、新本小学校の全児童によるオペレッタ「義民様」も奉納されています。


参考文献

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リンクがなく書誌情報がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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