冨田才治

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義民伝承のある場所の概要

宝暦12年(1762年)、三河国岡崎から肥前国唐津に転封となった水野忠任(ただとう)は、藩財政強化のために増税策をとりますが、領民の反発を招き、明和8年(1771)、領民2万3000人が天領との境界にあたる虹の松原に集結して新税撤回などを要求する「虹の松原一揆」を引き起こします。
その際、冨田才治らの指導により、いったんは犠牲者を出すことなく要求が認められますが、その後の百姓らに対する唐津藩の追及が厳しく、見かねた富田才治ら4人が一揆の首謀者として藩に名乗り出て、明和9年(1772)、西の浜において処刑されます。
その後、才治を義民として慕う人々によって、富田神社が創建され、現在は宝くじ当選祈願の開運スポットにもなっています。


 富田神社の所在地や地図は次のとおりです。

 ここに地図が表示されるまでしばらくお待ち下さい。
 右下のロゴをクリックすると大きな地図に遷移します。
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名称 富田神社
所在地 佐賀県伊万里市南波多町府招3575
リンク [関連サイトに遷移]
備考 国道202号沿いに「冨田神社」の大きな看板があり、さらに参道には無数の幟が立っています。神社は無人ですので自由に拝殿の中まで出入りできます。

解説

三河国岡崎藩では、6代藩主の水野忠辰が藩政改革を進め、藩財政の好転や能力本位の登用などの大きな成果を上げますますが、これが保守派の家老らの抵抗によって頓挫すると奢侈に走り、吉原の遊女を藩費で身請けするなど乱心してしまい、ついに主君押し込めによる強制的な隠居と代替わり(水野騒動)へと発展します。

次いで岡崎藩主となった水野忠任(ただとう)も、宝暦12年(1762年)には三河国岡崎から肥前国唐津に転封となります。
唐津藩主となった水野忠任は、藩財政強化のために増税策をとりますが、これが旧慣無視として農民・漁民の反発を招き、明和8年(1771)、2万5460人もの領民が天領との境界にあたる虹の松原(二里松原)に集結して、諸運上(新税)の廃止、耕作不能地(水洗、砂押)への課税や楮(こうぞ)専売の撤回などを要求する、いわゆる「虹の松原一揆」が勃発します。

このとき、平原村の大庄屋である冨田才治らの指導のもと、一揆勢は整然と行動したため、幕府天領に迷惑をかけることによる処罰を怖れた藩の思惑ともあいまって、無血のうちに一揆勢の要求が認められます。

しかし、その後の唐津藩による首謀者探しの追及は厳しく、見かねた冨田才治らは藩に自首し、冨田才治と半田村名頭の麻生又兵衛、常楽寺住職の智月和尚、市村藤兵衛の4名が一揆の翌年の明和9年(1772)、西の浜において斬首の上、街道筋に晒し首となります。

冨田才治の処刑後の文政10年(1827)、才治の乳母だった人の夢枕に立ったとして、幼少の頃に乳母に養育されていた縁の土地である新屋敷地区に、富田神社が創建されました。

現在の冨田神社には拝殿や篭り堂があり、拝殿奥の御霊舎には才治の遺髪が納められています。
また、宝くじ高額当選が頻発する伊万里市内の冨田園茶舗(伊万里市伊万里町甲349-1)で宝くじを購入後、この冨田神社を訪れて、社頭にある小さな木刀に祈願文を書いて奉納すると御利益があるといわれ、宝くじ当選祈願の開運スポットとしても知られるようになっています。


参考文献

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リンクがなく書誌情報がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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