義民のあしあと

多田加助(貞享義民社)

貞享騒動の多田加助らが処刑された勢高刑場跡に営まれた「義民塚」


貞享3年(1687)、折からの不作の中、松本藩では年貢増徴を決めたため、これに対抗して信州安曇野の元庄屋・多田加助らが郡奉行に五箇条の訴状を提出して年貢減免を要求、聞きつけた百姓ら1万人も松本城下に押し寄せます。
藩ではいったんは百姓らの要求を受け入れるものの、後にそれを反故にして多田加助らを捕縛、一揆の首謀者として、また彼に連座して、女子を含む28人が磔、獄門の極刑に処せられます。
これを「加助騒動」「貞享騒動」といい、後に多田加助は貞享義民社に祀られるとともに、明治時代の自由民権運動のシンボルになったほか、義民会館や貞享義民記念館も建てられて顕彰されています。


義民伝承の内容と背景

貞享3年(1686)、信州安曇野は例年の不作が続いていたものの、松本藩では籾1俵あたりの年貢をこれまでの玄米3斗から3斗5升に引き上げる大増税を行い、これは高遠や諏訪など周辺諸藩の2斗5升と比較しても相当な重税でした。

安曇郡中萱村の元の庄屋(代々の庄屋として彦三郎を名乗っていたが、延宝9年に庄屋職を召し上げられている)であった多田加助は、他の庄屋らと熊野神社で談合し、10月14日、「御情に御赦免被下候はば難有奉存候」と5か條にわたる訴状を郡奉行に提出して年貢の減免を訴えますが、これを知った他の百姓ら1万人も松本城下に押し寄せ、一部では一揆勢が商家を打ち毀して回りました。

参勤交代で藩主不在のなか、急ぎ対応を迫られた留守中の城代家老らは、いったん百姓らの要求を受け入れ、その旨をしたためた証文を渡して百姓らを帰村させます。

この松本藩で起きた大規模な強訴の一件は「貞享騒動」、「加助騒動」、「多田加助騒動」などと呼ばれますが、江戸にいた藩主・水野忠直にも直ちに注進され、藩では先の百姓らとの約束を反故にして、首謀者であった多田加助らを捕縛し、厳罰に処することを決定します。

11月22日、松本城下の勢高刑場及び出川刑場において、一揆の頭取である多田加助をはじめ小穴善兵衛、小松作兵衛、川上半之助、丸山吉兵衛、塩原惣左衛門、三浦善七、橋爪善七のあわせて8名が磔、他の同志や事件に連座した子や弟など20人が獄門に処せられ、なかには楡村の小穴善兵衛の子しゅんのように、当時としても珍しく、16歳の女性までもが連座により獄門となっています。

多田加助は勢高刑場で処刑されますが、その際に向こうで見守る百姓らに「2斗5升」と叫んだといい、のちに松本藩でも年貢が3斗にまで引き下げられ、要求の一部が実現します。
なお、勢高刑場の位置は長らく不明であったものの、戦後になって、松本城を見下ろす高台で松本市立丸の内中学校の建設工事をする際に、子供を含む18体の人骨が発掘されたことから、ここが多田加助らが犠牲となった場所と特定され、現在ではその場所に「義民塚」が営まれています。

貞享騒動後の享保10年(1725)、時の松本藩6代藩主であった水野忠恒は、江戸城松の廊下で長府藩の毛利師就に対して刃傷沙汰に及んで改易、かわりに戸田松平家が鳥羽藩から松本藩に転封となり、世間ではこれは多田加助の怨霊の仕業によるものと噂されたといいます。

享保20年(1735)、多田加助の屋敷の片隅に、加助らの霊を祀る小祠が建立され、明治13年(1880)には「義民二百年祭」を契機として萱村郷蔵跡に社殿の再建があり、このとき祟りを怖れた水野家が密かに供養していたという多田加助の木像が寄進されています。

明治時代には自由民権運動のなかで多田加助の業績が顕彰され、半井桃水による小説『義民加助』が朝日新聞紙上に連載されるなどしており、昭和35年(1960)には「貞享義民社」の名で神社本庁に登録、隣接して「義民会館」、道路挟んで常設展示のある「貞享義民記念館」が建てられたほか、「多田加助屋敷跡」は長野県史跡の指定を受けています。


貞享義民社へのアクセス

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名称

貞享義民社 [参考リンク]

場所

長野県安曇野市三郷明盛3333-1
(この地図の緯度・経度:36.274979, 137.896018)

備考

貞享騒動で刑死した多田加助の木像を祀る「貞享義民社」は、安曇野市三郷明盛、JR大糸線の中萱駅から西に500メートル離れた長野県道314号線沿いにあります。近くまで行けば大きな看板が出ています。神社に隣接して「義民会館」も建っています。


「多田加助の墓」(36.2751, 137.8961)は、加助を祀る「貞享義民社」のすぐ裏手にあります。いくつかある墓石のなかでも加助の墓には案内の標柱が建っています。


「貞享義民社」は多田加助の屋敷の敷地内につくられた小祠がもとになっていますが、この神社西側の県道沿いには、長野県史跡「多田加助旧宅跡」(36.2749, 137.8958)を示す解説板が建っています。


貞享騒動の際に農民らが密議を凝らしたという「熊野神社」(36.2734, 137.8956)は、「貞享義民社」の150メートルほど南側にあります。


貞享騒動に関連した資料の展示収集や調査研究などを目的に開設された「貞享義民記念館」(36.2739, 137.8968)は、「貞享義民社」の南側、県道を挟んだ反対側にあります。


貞享騒動で筑摩郡の11人が処刑された出川刑場にあたる「貞享義民刑場之阯」(36.2198, 137.971)は、松本城から真南に2キロメートルほどの、現在の松本市庄内3丁目にあたる田川沿いの空地で、「南無妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」などと書かれた供養塔が建っています。車で訪れ場合は一方通行規制があります。


18体の人骨(うち1体は貞享騒動と無関係)発掘で貞享騒動の多田加助らが処刑された勢高刑場であることが判明した場所は、松本城の北西1.2キロ、今の松本市宮渕3丁目の市立丸の内中学校裏の住宅街の中にあり、昭和27年に「義民塚」(36.2439, 137.9572)が営まれました。




参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。

中部地方 多田加助 貞享騒動