南山義民

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義民伝承のある場所の概要

現在の南会津郡の一帯は、江戸時代の半ばには南山御蔵入(みなみやまおくらいり)領として幕府の直轄地になっていましたが、もともと豪雪地帯で地味に乏しいところ、年貢の増徴や廻米の強制により百姓は疲弊していました。
そこで、享保5年(1720)、下郷の百姓が幕府の田島代官所を取り囲んで、年貢減免や石代納(年貢米の金銭納)などを求める強訴を行います。
しかし、代官所では埒が明かず、百姓の代表者が江戸表まで上り、幕府勘定所に訴状を提出しますが、幕府の取り調べの結果、一揆を扇動したとして6名が斬首となり、首は田島鎌倉崎(現南会津町)に晒されました。
その後、幕府でも江戸への廻米中止や新税の一部廃止を行ったため、地元では彼らを義民として讃え、丸山公園には「南山義民碑」が建てられています。


 南山義民之碑の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 南山義民之碑
所在地 福島県南会津郡南会津町田島地内
リンク [関連サイトに遷移]
備考 丸山公園前には大きな駐車場があります。公園は高台になっていて、階段の入口に近いほうに「南山義民之碑」と、その向かいに平成になってから造られた「南山義民地蔵尊」があります。公園内をさらに階段を登ると土井晩翠の碑や小栗山喜四郎墓もあります。
  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。


解説

現在の福島県南会津郡の一帯は、江戸時代の半ばには南山御蔵入(みなみやまおくらいり)領として幕府の直轄地になっていました。
江戸と奥州の地理的な関係から見て、戦略的には重要な場所ではあるものの、もともと豪雪地帯で地味に乏しく、面積が広大な割に石高は5万石を超える程度でした。

百姓らは年貢の増徴をはじめ、年貢米を江戸まで廻米するための労役により疲弊し、ついに享保5年(1720)、下郷の百姓が幕府の田島代官所を取り囲んで、年貢減免や石代納(年貢米の金銭納)、郷頭(代官の下で村々を支配していた村役人)制の廃止などを求める強訴を行います。
しかし、代官所では権限を超えるとして埒が明かず、翌年になって、百姓の代表者として、布沢村名主孫右衛門を頭取に、15名が江戸表まで上り、幕府勘定所に訴状を提出することになり、受理はされたものの裁定は長びき、追加で江戸まで上った者もありました。

事態を重く見た幕府では、江戸に上った名主、百姓らが地域の代表者であるという根拠を突き崩す作戦に出て、彼らが国許不在の間に、領内全戸の取り調べを始め、恐怖を感じた百姓らから、一揆の資金を出すことを強制されたなどの言質を引き出します。

その結果として、享保7年(1722)、一揆を扇動したとして名主孫右衛門の弟である茂左衛門をはじめとして、小栗山村喜四郎、新遠路村久次右衛門、滝沢村喜左衛門、黒谷村儀右衛門、界村兵左衛門の6名が死罪獄門となり、首は田島に送られて鎌倉崎(現南会津町)に晒されました。

この一件は「南山御蔵入騒動」「会津御蔵入騒動」「五万石騒動」「南山一揆」などと呼ばれていますが、その後、幕府でも代官の山田八郎兵衛を罷免し、南山を会津藩の預かり地とすることにより、実質的に江戸への廻米中止や新税の一部廃止を行ったため、地元では彼らを義民として讃え、昭和3年(1928)に丸山公園内に地元の漢学者杉原夷山の撰文による「南山義民之碑」が建てられたほか、昭和16年にもこの地を訪れた詩人の土井晩翠が「南山義民」の話に感動して「目にみえぬ 神秘の力 我を引き 義民の墓に 今日詣でしむ」と詠み、その歌碑も残されています。
また、近年では地元の若者らにより、南山義民6名中ただ1人田島で処刑された喜四郎を主人公とした現代版組踊「息吹~南山義民喜四郎伝」の公演なども行われています。


参考文献

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リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されている)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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