義民のあしあと

大竹与茂七(五十志霊神社)



越後国蒲原郡中之島村(新潟県長岡市)の名主であった大竹与茂七は、宝永元年(1704)の大雨で刈谷田川の堤防が決壊した際、自身の山の木とともに、新発田藩の藩有林を無許可で伐採して堤防を補強し、流域の村を救います。
この一件は中之島組大庄屋の星野儀兵衛らから藩に訴えられますが、裁判では咎めなしとなります。
正徳2年(1712)、これを面白からず思った大庄屋から、さらに凶作の際の借金の未納などを巡って訴えられ、釘抜きで歯を抜かれる拷問にも屈しなかったものの、ついに百姓一揆を煽動したという無実の罪で、翌正徳3年(1713)に処刑されます。
これを「与茂七騒動」といいますが、その後、城下に大火が起こるなどの不幸が重なり、与茂七の祟りと噂されたため、藩によって祠に祀られ、現在は五十志霊神社の祭神となっています。



目次
  1. 五十志霊神社の概要
  2. 五十志霊神社へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と歴史的背景
  4. 参考文献


五十志霊神社へのアクセス

名称 五十志霊神社
場所 新潟県新発田市諏訪町1丁目8-9
(地図の緯度・経度:37.944715, 139.331221)
リンク [クリックして遷移]
備考
諏訪神社の新潟県道14号線沿いの神門から入ってすぐのところに五十志霊神社があります。
注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

義民伝承の内容と歴史的背景

越後国蒲原郡中之島村(新潟県長岡市)の名主であった大竹与茂七は、宝永元年(1704)の大雨で刈谷田川の堤防が決壊した際、自身所有の山の木とともに、足りない部分を、名主の上に立つ中之島組大庄屋の星野儀兵衛所有の山林や、新発田藩の藩有林から無許可で伐採して堤防を補強し、流域の村を救います。
この一件は大庄屋らから藩に訴えられますが、裁判では咎めなしとなります。

正徳2年(1712)、これを面白からず思った大庄屋の星野儀兵衛からは、凶作の際に御救米金として貸した借金が未納になっていると言い掛かりを付けられ、一方で庄屋の与茂七のほうは、大庄屋が藩が定める以外の不当な雑用銀の取り立てをしているなどと不正を告発して訴訟合戦になります。

最終的に、名主が大庄屋に楯突くのは藩内の秩序が揺らぐ原因になると危惧した家老の梶舎人の意向により、正徳3年(1713)、一味を結んで大庄屋に非義を申し掛けたとして、大竹与茂七と脇川新田名主の広島善助が獄門となり、その首は中之島まで送られて灰島街道沿いに3日間晒され、他にも中興野村名主小助、池之島村名主三太兵衛倅安左衛門、灰島新田名主喜平太の3人がこれに加担した罪で斬首となります。

この際、与茂七は釘抜きで歯を抜かれる拷問にも屈せず、陥れた人間を末代まで祟ると言い残したとされ、返済したはずの借金で無実の罪を着せられた無念を「今はよし あらぬ濡れぎぬ 身に負えど 清き心は 知る人ぞ知る」の辞世に詠んだと伝わっています。

これを「中之島組騒動」「与茂七騒動」といいますが、その後の享保4年(1719)には新発田城下で千軒あまりを焼く大火が起こるなどの不幸があり、人々は与茂七の祟りによる「与茂七火事」と噂し合います。
藩でも与茂七の祟りを恐れて祠に祀り、現在は諏訪神社の末社五十志霊神社の祭神(与茂七さま)となり、火防の神として慕われています。


参考文献・参考資料


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