大竹与茂七

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義民伝承のある場所の概要

越後国蒲原郡中之島村(新潟県長岡市)の名主であった大竹与茂七は、宝永元年(1704)の大雨で刈谷田川の堤防が決壊した際、自身の山の木とともに、新発田藩の藩有林を無許可で伐採して堤防を補強し、流域の村を救います。
この一件は中之島組大庄屋の星野儀兵衛らから藩に訴えられますが、裁判では咎めなしとなります。
これを面白からず思った大庄屋から、さらに凶作の際の借金の未納などを巡って訴えられ、釘抜きで歯を抜かれる拷問にも屈しなかったものの、ついに百姓一揆を煽動したという無実の罪で、正徳3年(1713)に処刑されます。
これを「与茂七騒動」といいますが、その後、城下に大火が起こるなどの不幸が重なり、与茂七の祟りと噂されたため、藩によって祠に祀られ、現在は五十志霊神社の祭神となっています。


 諏訪神社(末社五十志霊神社)の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 諏訪神社(末社五十志霊神社)
所在地 新潟県新発田市諏訪町1丁目8-9
リンク [関連サイトに遷移]
備考 五十志霊神社は、新潟県道14号線の諏訪神社の神門から入ってすぐのところにがあります(駐車場は神門から離れた県道沿いに入口あり)。
与茂七の刑場跡は、すき家7号新発田中曽根店裏手の斜めの道路入って100メートル先の「名主与茂七鎮魂の地」の木柱と身代わり地蔵があるあたり、与茂七が晒された獄門台跡は長岡市中之島文化センター(長岡市中之島4116)北側にある「与茂七地蔵」(入口に与茂七の像と立派なお堂があり地蔵は建物の中に安置)とされています。
  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。


解説

越後国蒲原郡中之島村(新潟県長岡市)の名主であった大竹与茂七は、宝永元年(1704)の大雨で刈谷田川の堤防が決壊した際、自身所有の山の木とともに、足りない部分を、名主の上に立つ中之島組大庄屋の星野儀兵衛所有の山林や、新発田藩の藩有林から無許可で伐採して堤防を補強し、流域の村を救います。
この一件は大庄屋らから藩に訴えられますが、裁判では咎めなしとなります。

その後、これを面白からず思った大庄屋の星野儀兵衛からは、凶作の際に御救米金として貸した借金が未納になっていると言い掛かりを付けられ、一方で庄屋の与茂七のほうは、大庄屋が藩が定める以外の不当な徴税をしているなどと不正を告発して訴訟合戦になります。

最終的に、名主が大庄屋に楯突くのは藩内の秩序が揺らぐ原因になると危惧した家老の梶舎人の意向により、徒党を組んで一揆を煽動したとして、正徳3年(1713)、大竹与茂七と脇川新田名主の広島善助が獄門となり、その首は中之島まで送られて与板街道沿いに3日間晒され、他にも中興野名主小助、池之島村名主三太兵衛倅安左衛門、灰島新田名主喜平太の3人がこれに加担したとして死罪となります。

この際、与茂七は釘抜きで歯を抜かれる拷問にも屈せず、陥れた人間を末代まで祟ると言い残したとされ、返済したはずの借金で無実の罪を着せられた無念を「今はよし あらぬ濡れぎぬ 身に負えど 清き心は 知る人ぞ知る」の辞世に詠んだと伝わっています。

これを「中之島組騒動」「与茂七騒動」といいますが、その後享保4年(1719)には新発田城下に大火が起こるなどの不幸があり、人々は「与茂七火事」として、与茂七の祟りと噂し合います。
藩でも与茂七の祟りを恐れて祠に祀り、現在は諏訪神社の末社として新発田藩溝口氏ゆかりの功臣を合祀する五十志霊(いそしれい)神社の祭神(与茂七さま)となり、火防の神として慕われていますが、その御神体が「首なし地蔵」であることからも、もともとの経緯が伺われます。


参考文献

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リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されている)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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