義民のあしあと

本郷村善九郎(本郷村善九郎の墓)


江戸時代の飛騨国は幕府の直轄地として高山陣屋が置かれていましたが、大原彦四郎紹正(つぐまさ)、子の正純が飛騨代官となった時代には、「大原騒動」として有名な百姓一揆が勃発します。
これらは元号をとって明和騒動、安永騒動、天明騒動の3つにわかれており、特に安永騒動では1万人ともいわれる百姓が蜂起し、代官の要請で郡上藩など周辺諸藩の藩兵が鎮圧に当たり、百姓らに多大な犠牲が生じたほか、事件後には飛騨一宮水無神社の神官らが磔、18歳の若き指導者だった本郷村善九郎らが獄門などの極刑に処せられました。
安永騒動の発端は検地と増税でしたが、代官の大原彦四郎は逆に検地を成し遂げた功労で布衣郡代に昇進しています。


目次
  1. 本郷村善九郎の墓の概要
  2. 本郷村善九郎の墓へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献


本郷村善九郎の墓へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

本郷村善九郎の墓 [参考リンク]

場所

岐阜県高山市上宝町本郷1425
(この地図の緯度・経度:36.2818, 137.3643)

備考

県道477号線からAコープ本郷前の参道を進むと20台ほど駐車可能な駐車場があり、その先の石垣で囲われた高台上に本覚寺があります。「本郷村善九郎の墓」は、境内の裏山にあり、「善九郎の墓」の看板が建っています。そのほか、境内には大原騒動の犠牲者を供養するための「寒念仏供養塔」もあります。

その他、「桐生町万人講」(処刑場跡)は、県道458号の万人橋西詰、高山市桐生町1丁目293(緯度経度:36.1533, 137.2550)にあたり、寛政8年(1796)に大谷村の荒川久治が東山雲龍寺の存妙上人とともに建立したという「南無三世諸仏」と書かれた大原騒動犠牲者の供養塔があります。

「一宮大集会之地」(高山市一之宮町地内、緯度経度:36.0862, 137.2507)は、飛騨一宮水無神社の正面の神橋傍らにある大原騒動の記念碑で、昭和61年の建立です。水無神社境内にも一揆勢が詰めていた当時の拝殿(現在は「絵馬殿」として移築)が残っています。



義民伝承の内容と背景

江戸時代の飛騨国は幕府の直轄地として高山陣屋が置かれていましたが、大原彦四郎紹正(つぐまさ)が第12代の飛騨代官となった時代以降には、「大原騒動」として有名な百姓一揆が勃発します。

これらは明和8年(1771)から天明8年(1788)までの長きにわたりますが、当時の元号をとって、時期的に「明和騒動」、「安永騒動」、「天明騒動」の3つにわかれており、特に「安永騒動」が最大のものとされます。

「安永騒動」の発端は、安永2年(1773)に大原彦四郎が年貢率引き上げのうえでの定免制の採用と、元禄年間以来となる新開の田畑の検地を始めたことにあります。

代官の説明では新たに切り開かれた田畑だけのはずが、古い田畑にも厳しい検地が及んだ結果、全体で1万石以上の石高の打ち出しがあり、当然、百姓にとっては重税の負担が増すというものでした。

これに対して、飛騨の村々の名主・百姓らは代官所に嘆願書を提出しますが拒否されたため、舟津町村太郎兵衛(いまの岐阜県飛騨市神岡町)ら代表者が江戸表に出て松平右近将監武元への駕籠訴などを行いますが、逆に願いが聞き届けられぬまま死罪(一部は牢死)となり、首級は塩漬けにされて江戸から飛騨に送られ、万人講の処刑場に晒し首となってしまいます。

これを受けて、百姓らは本郷村小割堤や一之宮鬼川原で集会を開き、高山陣屋にも押し寄せて年貢の延納などを要求しますが、最終的には一宮水無神社に1万人が集まり、白川郷など一部を除く、ほぼ飛騨国全土にわたる規模の大規模な一揆へと発展します。

代官は江戸にこの旨を報告し、幕府の要請で近隣の郡上藩や大垣藩、富山藩などから藩兵が出兵し、水無神社の神域に逃げ込んだ百姓にも鉄砲を射掛けるなどして、百姓側に死者、負傷者多数を出す大惨事となります。

事件後の安永3年(1774)、百姓に加担した飛騨一宮水無神社神主の山下和泉、森伊勢と無数河村名主長次郎、宮村又四郎(ともに今の高山市)の4名が磔、18歳の若き指導者だった本郷村(今の高山市)善九郎らが獄門などの極刑に処せられました。

なお、本郷村善九郎が処刑の4日前に16歳の妻のかよに書き残した手紙(「本郷村善九郎の遺書」)には、「拙者義もかくごいたし申し候、其の方にもあきらめ成さる可く、此の世にてはあひ申さず候」と暇乞いの文言がみえ、現在は岐阜県の重要文化財として指定され、国史跡高山陣屋に写しが展示されています。

本郷村善九郎の遺書の全文と大意は次のとおりです。(原文は変体仮名や略字が使われ、句読点や濁点はありません。)

本郷村善九郎の遺書

尚々申上候私のともだち
の衆中様えも、右の趣伝可被下候
一、書置申候事、承候得ば
風便あしく有之候得ば、私にも
相はて申候様に相聞候間、
拙者義もかくご
いたし申候、其方にも
あきらめ可被成、此世にては
あひ不申候、然共一
度あひ申候えば残心も
無御座候、此上御両
親様随分/\
太切に奉願上候、扨
其方にもをふりどのと
中能相くらし
可被成候、扨又随分/\
松之丞様太事に被
成可被下候、且又御見
舞方へ御礼を
可被申候、此間も鉈
見村与十郎殿より柿一わ、
石神長重郎殿よりは一わ
被下候、御礼可被申候、此上
にも随分/\仕合能くて、ゑんとを、
つい方にも相成候得ば、
罷帰り御目に懸可
申候、乍然し罷かい
る事は、しやうふしやう
にて御座候得ば、いとまごい一筆入候、
その上いとまごいの
ため申入度如此御
座候。 以上
十二月一日
      善九郎
おかよどの

現代語訳

なお、私の友人たちにもこのことを伝えておいてください。【この部分は遺書の冒頭に追記されている。】
一筆書き置きます。聞くところによると、当局の心証は悪く私も死罪になりそうとのことです。私自身は覚悟していますので、あなたもあきらめてください。この世ではもうお会いすることはないでしょうが、死ぬ前に一度お会いできたので心残りはありません。こうなった以上はご両親を大切にしてくださるようお願いします。またあなたもおふり殿と仲良く暮らしてください。そして松之丞様(子供)も大切にしてください。それからお見舞をいただいたことにお礼を言っておいてください。この間も鉈見村の与十郎殿から柿1把、石神長十郎殿からも1把もらったのでお礼をしてください。もし幸いにも遠島(島流し)や追放で済めば立ち帰ってお目にかかりたいと思いますが、見込みは不確かですので、この世の暇乞いに一筆差し入れます。以上、ご覧の通り最後のお別れを申し上げます。
12月1日
     善九郎
おかよ殿

安永騒動の発端は検地と増税でしたが、代官の大原彦四郎は、逆に検地を成し遂げた功労で、上位の身分の証として布衣(ほい)の着用を許される郡代にまで昇進しています。
そのいっぽうで、多くの百姓の恨みを買い、妻は夫の苛政を戒めるために自害、自身も眼病により失明するなどしており、神仏にすがって安永8年(1779)に水無神社に寄進した灯籠一対が残ります。
第13代の飛騨郡代は、大原紹正の子である大原亀五郎正純ですが、彼も私利私欲に走って「天明騒動」を引き起こし、最終的に大原亀五郎は不正により八丈島に流罪、駕籠訴をした農民も死罪となっています。



参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社)はリンク先下部に記載があります。リンクがないものは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で収蔵している場合があります。

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