義民のあしあと

宝暦義民




義民伝承地の概要

宝暦5年(1755)、加賀藩では正銀に代えて藩札を発行して領内に流通させたため、インフレが起こり、領内百姓らは物価高騰による生活苦にあえいでいたところ、翌年の宝暦6年(1756)には、能登で大洪水と飢饉が発生、多くの死者を出す被害に見舞われます。

このため、千人ともいわれる農民が、加賀藩の十村役であった宇出津の源五宅を襲撃する、いわゆる「宝暦一揆」が起こりますが、藩の追及に対して、中斉村甚左衛門はじめ7人が罪を一身に被って家財没収や入牢となり、ついには獄死してしまいます。

例年の凶作の中、宝暦8年(1758)にも宇出津組で年貢米の不足が摘発され、このときにも寺分村勘十郎らが責任を負って入牢、獄死しており、地元には彼ら「宝暦義民」を称えるさまざまな石碑などが建てられています。

宝暦杉の地図

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名称 宝暦杉
所在地 石川県鳳珠郡能登町五郎左エ門分竹20
備考 石川県道57号からは、「あじさい寺」で知られる平等寺の入り口とは反対方向に50メートルほど進んだ、寺五地区生活改善センターの道路向かい、旧五十里村と中斉村の境界の橋のたもとにあります。宝暦杉の脇には、「宝暦義民之碑」や史跡案内板が建てられています。
参考リンク [クリックして遷移]

  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

宝暦5年(1755)、加賀藩では幕府から15年を限って藩札の発行が認められたため、金沢城下に札座を設け、藩士貸付け用の仮札の発行にはじまり、正銀の流通停止、藩札の本格運用などが段階的に進められます。
しかし、当初は商人が藩札を信用せず物が買えない、偽札が出回るなどのトラブルがあったほか、次第にインフレも起こって領内百姓らは物価高騰による生活苦にあえぐようになります(後に藩札流通は差し止めとされる)。

翌年の宝暦6年(1756)には、能登で大洪水とそれにともなう飢饉が発生、多くの死者を出す被害に見舞われたため、五十里村など宇出津組下にある千人ともいわれる農民が、加賀藩の十村役(とむらやく:加賀藩で徴税を担う肝煎の上に立つ有力農民)を仰せつかっていた宇出津の源五宅を襲撃する、いわゆる「宝暦一揆」「源五騒動」が起こります。

同年、この騒動の首謀者として、五十里村治平、中斉村甚左衛門らあわせて7人が捕縛され、罪を一身に被って家財没収や入牢となり、宝暦7年(1757)には、これら7名は全員獄死してしまいます。

この年もやはり天候不順とウンカの食害によって凶作となりますが、続く宝暦8年(1758)には、源五騒動について加賀藩が取り調べをする過程で宇出津組の年貢米800石の不足が見つかり、その責任を負って、寺分村勘十郎、五郎左衛門分村太郎次郎、十郎原村藤次郎が投獄され、やはり翌年には勘十郎、太郎次郎が牢死(藤次郎は老齢のため倅が代牢するも藤次郎死亡のため釈放)しています。

このような事実は、能登町神和住(かみわすみ)真念寺所蔵の「真念寺鬼簿帳」から明らかとなっており、寺分村肝煎の勘十郎と五郎左衛門分村肝煎の太郎次郎が、もう村へは戻れないと観念して涙ながらに地元に植えたとされる杉の木が「宝暦杉」と呼ばれて能登町の指定文化財となっているほか、各地に「宝暦義民」を称える石碑も建立されています。

参考文献・参考資料


リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されています)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱わない稀覯本や内部配布物などですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

 

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