万石騒動の三義民

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義民伝承のある場所の概要

安房北条藩は1万石の小藩でしたが、藩主の屋代忠位(ただたか)は幕府の大番頭などの要職を歴任し、それがもとで財政的な困難を極めていました。
そこで、家老として川井藤左衛門を登用し、藩政改革を進めますが、増税や労役の負担などで百姓の反発は大きく、正徳元年(1711)には江戸表での藩主への門訴や幕府老中への駕籠訴という事態を招きます。
このときに直訴の首謀者とされた湊村角左衛門、国分村長次郎、薗村五左衛門の名主3人が斬罪となりますが、後に訴えは評定所に取り上げられて、川井は死罪、屋代家は改易となります。
これを「万石騒動」といい、地元では名主3名は「三義民」として慕われ、国分寺境内に営まれた「三義民の墓」と、萱野の「三義民刑場跡」は、千葉県館山市の指定史跡になっています。


 三義民刑場跡の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 三義民刑場跡
所在地 千葉県館山市国分99-2
リンク [関連サイトに遷移]
備考 国道128号の館山国分郵便局近くの急カーブに「市指定史跡 三義民刑場跡 Execution Site for three ringleader of peasant uprising」の看板があり、ここを北に300メートル進むと、国分北集会所向かいの道路沿いに「三義民殉難之碑」が建っている。
「三義民の墓」は、国道128号を看板から逆に南に500メートル進んだところにある「県・市指定史跡 安房国分寺跡 Site of Awa Kokubunji Temple」看板を入ってすぐの墓地内。三義民の墓(供養塔)からやや奥まったところに飯田長次郎(国分村名主)の墓もある。
  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。


解説

安房国安房郡北条村(今の館山市北条)に陣屋を置く安房北条藩は1万石の小藩でしたが、藩主の屋代忠位(ただたか)は幕府の百人組頭や大番頭などの要職を歴任し、それがもとで財政的な困難を極めていました。

そこで、職を辞して出費を節減するとともに、家老として川井藤左衛門を登用し、藩政改革を進めますが、元禄16年(1703)に発生した「元禄大地震」後の立て直し策として、川井は新田開発や用水路開削のために農繁期にも百姓を労役に駆り出し、神社仏閣の大木をみだりに伐採して売り払い、検見の上で年貢は6000俵の増税とし、さらに酒屋・糀屋に新規に運上を課したため、百姓の反発は大きなものがありました。

正徳元年(1711)には、北条陣屋に百姓600名が押しかけて年貢減免を求めたものの埒が明かず、次いで江戸表に出て藩主への門訴を行い、朝鮮通信使の来訪で繁忙の折、いったんは家老の川井藤左衛門も百姓の要求を認めて墨付を渡します。

しかし、その後に川井は名主を陣屋に出頭させて墨付を取り戻し、約束を反故にしたため、百姓らは老中・阿部正喬への駕籠訴を行いますが却下され、27か村の代表である湊村名主・秋山角左衛門、国分村名主・飯田長次郎、薗村名主・根本五左衛門の3名が萱野の刑場で斬首、代官の行貝弥五兵衛父子も百姓に加担したとして死罪となります。

百姓らは名主の処刑を受けて、さらに江戸で老中・阿部正喬への駕籠訴を行い、今度は訴えが評定所に取り上げられて、川井藤左衛門は打首、屋代家は改易となります。

これを訴状に「房州壱万石村々惣百姓」と記して直訴に及んだことから「万石騒動」といい、地元では名主3名は「三義民」として慕われ、江戸時代にはすでに『万石騒動日記』としてその記録がまとめられるとともに、後に佐倉藩における一揆の指導者として刑死した佐倉惣五郎を扱う『佐倉義民伝』にも影響を与えたとされています。

また、安房国分寺境内に営まれた「三義民の墓」と、萱野の「三義民刑場跡」は、現在、千葉県館山市の指定史跡になっています。


参考文献

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リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されている)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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