中島助兵衛(義民助兵衛の碑)
かつての飛騨国と美濃国の国境付近にあたる現在の下呂市金山町は、江戸時代には尾張藩や苗木藩、天領などに分かれていました。万治3年(1660)、尾張藩領では代官の独断で重税が課せられ、村人らが一揆を起こそうとしたところ、桐原村の中島助兵衛がこれを説諭し、単独で江戸に赴いて尾張藩主・徳川光友に越訴します。この結果、代官は免職となり、年貢も軽減されましたが、助兵衛自身は寛文6年(1666)に獄死します。明治時代にこの中島助兵衛の事績を顕彰するため、「義民助兵衛の碑」が建てられ、現在は下呂市指定史跡となっています。
義民伝承の内容と背景
かつての飛騨国と美濃国の国境付近にあたる現在の岐阜県下呂市金山町付近は、江戸時代には尾張藩や苗木藩、天領などに分かれており、飛騨街道が走る交通の要衝ではありましたが、地味に乏しく作物の生育には適さない土地柄でした。
しかし、尾張藩領では代官の独断で、年貢米9石の代わりに麦19石を上納することとなり、重税にあえぐ村人らは諏訪明神社に集まり、筵旗を建てて一揆を起こそうとしますが、桐原村の中島助兵衛がこれを説諭し、単身で江戸に赴いて尾張藩主・徳川光友に直訴します。
この結果、代官は免職となり、年貢も軽減されましたが、助兵衛自身は越訴をした廉で捕らえられ、死罪は免れたものの、寛文6年(1666)に獄死してしまいます。
村人らは公儀を憚り、密かに山深い場所に助兵衛の墓碑をつくって供養していましたが、明治28年(1895)に中島助兵衛の事績を顕彰するため、白山社に漢学者の依田学海の撰文による「義民助兵衛の碑」が建てられ、その後ともに菅田桐洞地内の現在地に移設されています。
現在、この「義民助兵衛の碑」は、下呂市史跡としての指定を受けており、史跡案内板などが整備されています。
義民助兵衛の碑へのアクセス
名称
- 義民助兵衛の碑 [参考リンク]
場所
- 岐阜県下呂市金山町菅田桐洞地内
(この地図の緯度・経度:35.639738, 137.125671) 備考
- 国道41号方面からアクセスする場合、岐阜県道58号関金山線「平成こぶし街道」を西に向かい、下呂警察署菅田警察官駐在所を過ぎてドリーム家電ナカシマ手前にある「義民助兵衛の碑 0.4キロ」の案内板を左折、道なりに450メートルほど進むと「義民の里橋」があり、橋のたもとの道路の退避所付近に「義民助兵衛の碑」や墓碑が集められています。
参考文献