義民のあしあと

大多和四郎右衛門(義人大多和四郎右衛門自刃之地)

飢饉の農民を救うため無断で米倉を開放した大多和四郎右衛門最期の地に建てられた「義人大多和四郎右衛門自刃之地」の碑


寛永19年(1642)、今の東金市界隈では干魃のため飢饉に見舞われ、名主の大多和四郎右衛門は、米倉の在庫を放出して困窮した百姓に分け与えるよう佐倉藩堀田氏に訴えましたが聞き入れられませんでした。
そこで、慶長年間の義人・市東刑部左衛門に倣って、みずからも領主の許可を得ずに米倉を勝手に開放して、飢えた百姓に分配してしまいます。
大多和四郎右衛門は、この罪の責任をとって自刃したため、地域では義民として伝承され、戦後になって、彼が自刃した場所に供養碑が建てられています。


義民伝承の内容と背景

寛永19年(1642)、上総国山辺郡東金町(今の千葉県東金市)では干魃のため飢饉に見舞われ、名主の大多和四郎右衛門は、米倉の在庫を放出して困窮した百姓に分け与えるよう領主である佐倉藩堀田氏に訴えましたが聞き入れられませんでした。

これより先、慶長10年(1605)の飢饉の際には、市東刑部左衛門という武士が年貢の減免と御救米の放出を幕府の役人に願い出たものの横暴な対応をされたため、役人を殺して米倉を開放し、百姓に分け与えた上で、自身は自刃して果てるということがありました。

そこで、大多和四郎右衛門も市東刑部左衛門に倣って、みずからも領主の許可を得ずに米倉を勝手に開放して、飢えた百姓に分配してしまいます。

大多和四郎右衛門は寛永20年(1643)、この大罪を詫びるために責任をとって長男の籠千代とともにで自刃して果てたため、地域では義民として伝承され、戦後になって、彼が自刃した道庭村の石切橋のあった場所に「義人大多和四郎右衛門自刃之地」の供養碑が建てられました。


義人大多和四郎右衛門自刃之地へのアクセス

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文中に緯度・経度の記載がある場合は、値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索すれば、その場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

義人大多和四郎右衛門自刃之地 [参考リンク]

場所

千葉県東金市道庭地内
(この地図の緯度・経度:35.582659, 140.378100)

備考

「義人大多和四郎右衛門自刃之地」は、千葉学芸高校総合グランド(千葉県東金市道庭215-1)の敷地の脇にあります。前面の公道沿いに「義人大多和の碑入口」と彫られた小さな道標のようなものが存在し、「自刃之地」の石碑そのものはこの道路よりも少し奥まった墓地内です。


参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。

関東地方 大多和四郎右衛門