義民市東刑部左衛門之墓(市東刑部左衛門の切腹伝承)

義民市東刑部左衛門之墓 義民の史跡
役人を成敗して米蔵を開いた名主の墓
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慶長10年(1605)、上総国山辺郡東金(今の千葉県東金市)にいた元武士で、土着して名主となっていた市東刑部左衛門は、年貢減免を認めない検田使を斬り捨て、米倉の蓄えを農民に分け与えた上で、その責を負って切腹して果てたと伝承されています。市東刑部左衛門が埋葬された場所は「市東塚」と呼ばれ、新しい墓碑が建てられています。

義民伝承の内容と背景

慶長10年(1605)の干魃による飢饉の際、上総国山辺郡東金の名主だった市東刑部左衛門胤晁は、検田使としてやってきた幕府の役人に年貢の軽減と救米を求めます。

彼はもとは東金城の城主だった酒井政辰(まさとき)に仕えていた武士で、主家の後北条家とともに酒井家が滅亡したため、上総東金の名主となっていました。

しかし、役人は訴えを無視して逆に年貢を2割増しにするなど横暴な対応をしたため、市東刑部左衛門はこの役人を斬り殺し、米倉を勝手に開けて困窮する農民に米を分け与えたといいます。

その後、市東刑部左衛門は責任を負って菩提寺であった西福寺(今の最福寺)に駆け込み切腹して果てたため、村人たちは遺体を運び出し、黒田台に塚をつくって埋葬しました。

これを「市東塚」「刑部塚」あるいは「義人塚」といい、現在は角栄団地の中に整備された木戸公園の高台に石碑が建てられています。

なお、『東金市史』では史料を明示した上で、市東刑部左衛門が必ずしも農民の立場から抗議の自刃をしたのではない可能性を指摘しています。

いくつかの可能性としては、酒席の上での役人との口論、主家を滅亡させた仇敵である徳川家康の暗殺未遂、将軍家の御鷹場における鶴の捕獲、重罪を犯した親族の身代わりなどの他の理由での自刃または死罪が挙げられています。

参考文献

『山武郡郷土誌』(千葉県山武郡教育会 千葉県山武郡教育会、1916年)
『千葉県誌』巻下(千葉県編 多田屋書店、1919年)
『東金市史』第5巻 総集編(東金市史編纂委員会 東金市役所、1987年)

義民市東刑部左衛門之墓の地図とアクセス

名称

義民市東刑部左衛門之墓

場所

東金市日吉台6丁目24番地

備考

首都圏中央連絡自動車道「東金インターチェンジ」から車で10分。角栄団地内の木戸公園敷地北側にあり、入口の階段を上っていくと、樹木に囲まれた頂上に「義民市東刑部左衛門之墓」の石碑が建っています。

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最福寺

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