市東刑部左衛門
義民伝承地の概要
慶長10年(1605)の飢饉の際、東金の名主だった市東刑部左衛門は、幕府の役人に年貢の軽減を求めますが、横暴な対応をされたため、役人を斬り殺し、米倉を勝手に開けて困窮する農民に米を分け与えたといいます。
その後、市東刑部左衛門は責任を負って切腹したため、村人たちは遺体を運んで山辺郡丘山村に塚をつくって埋葬し、義民と讃えたといいます。
これを「市東塚」といい、現在は木戸公園内に石碑が建てられています。
その後、市東刑部左衛門は責任を負って切腹したため、村人たちは遺体を運んで山辺郡丘山村に塚をつくって埋葬し、義民と讃えたといいます。
これを「市東塚」といい、現在は木戸公園内に石碑が建てられています。
義民市東刑部左衛門之墓の地図
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名称 | 義民市東刑部左衛門之墓 |
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所在地 | 東金市日吉台6丁目24番地 |
備考 | 東金市日吉台の新興住宅地の高台にある木戸公園内の一隅に整備されています。 |
参考リンク | [クリックして遷移] |
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- 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。
義民伝承の内容・歴史的経緯
慶長10年(1605)の干魃による飢饉の際、東金の名主だった市東刑部左衛門胤晁(しとうぎょうぶざえもんたねあさ)は、検田使としてやってきた幕府の役人に年貢の軽減と救米を求めます。
彼はもとは東金城の城主だった酒井政辰(まさとき)に仕えていた武士で、主家の後北条家とともに酒井家が滅亡したため、上総東金の名主となっていましたが、役人は訴えを無視して逆に年貢を2割増しにするなど横暴な対応をしたため、役人を斬り殺し、米倉を勝手に開けて困窮する農民に米を分け与えたといいます。
その後、市東刑部左衛門は責任を負って切腹したため、村人たちは遺体を運び出して、山辺郡丘山村に塚をつくって埋葬し、義民として讃えました。
これを「市東塚」といい、現在は日吉台の新興住宅地のなかに整備された木戸公園内に石碑が建てられています。
参考文献・参考資料
- 山武郡郷土誌 (千葉県郷土誌叢刊)
- 『東金市史』第5巻(東金市、昭和62年)
- 『東金讃歌』(東金市、平成16年)
リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されています)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱わない稀覯本や内部配布物などですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。