平藤治(藤尾社)
江戸時代の寛政年間、武蔵国多摩郡高幡村(現在の日野市高幡)に生まれた平藤治は、重税に困窮する農民を救うため、年貢の減免を名主らに掛け合ったものの、身内の密告でかえって捕らえられ、江戸伝馬町の牢屋敷に投獄されてしまいます。
しかし、特に一揆を企てるなどの嫌疑がないことがわかり、釈放されて村に帰る段になって、牢役人から差し入れられた毒入りまんじゅうを食べて亡くなったといいます。
村ではその後不吉なことが起こったため、藤治の祟りをおそれてこれを社に祀り、「藤尾社」「藤治権現」と呼んで、例祭の日にはまんじゅうを備える風習が生まれたといいます。
地元の名物の「高幡まんじゅう」は、この伝説が起源になっています。
主要項目
義民伝承の内容と背景
江戸時代の寛政6年(1794、または寛政3年とも)、武蔵国多摩郡高幡村(現在の日野市高幡)の旧家に生まれた平藤治(たいらとうじ)は、村の若者らからの信望があり、重税に困窮する農民を救うため、年貢の減免を親族の名主らに掛け合います。
しかし、一揆を企てているのではないかと詮索し、後難を恐れた身内の密告で、かえって捕らえられて江戸伝馬町の牢屋敷に投獄されてしまいます。
取り調べの結果、平藤治には特に一揆を企てるなどの嫌疑がないことがわかり、釈放されて村に帰ることになりましたが、その直前に牢役人から差し入れられた毒入りまんじゅうを食べて亡くなります。
これは、藤治が帰ってきては厄介なことになると考えた名主らの謀で、無実の罪で殺されたものとされています。
文政2年(1819) 4月17日に藤治が亡くなった後、村では不吉なことが起こったため、村人らは藤治の祟りをおそれて「権現さま」として祀ることとし、天保5年(1834、天保8年とも)に藤治の棲家の跡に小祠が建てられたといいます。
日野市郷土資料館には、平家に伝来した古文書のうち、天保10年(1839)の『藤尾社普請諸色入用覚帳』が残されています。
以来、「藤尾社」と称する小祠では、毎年4月17日を例祭と定め まんじゅうを奉納して藤治の供養をする風習が生まれ、明治28年(1895)、下田レンが栄昌堂を創業して高幡不動尊の門前で「高幡まんじゅう」を販売(戦争末期の食糧難で昭和20年に廃業)するに至って、地元の名物として「高幡まんじゅう」の名が全国に轟くことになりました。
藤尾社へのアクセス
名称
- 藤尾社 [参考リンク]
場所
- 東京都日野市高幡 高幡323-1
(この地図の緯度・経度:35.662051, 139.414298) 備考
- 京王線高幡不動駅のアンダーパスを徒歩で北側に抜けて滝瀬米店とコンビニローソンの間の路地を入って50メートル程度。社殿前には日野市教育委員会の案内板がありますが、入り口の道路沿いには何もなく、住宅の陰に隠れています。
参考文献
- 日野市史〈民俗編〉 (1983年)
- 近世義民年表
- 『高幡風土記 今昔・語り継ぎ記』(森久保憲治,2010年)
- 『日野の歴史と文化』18号(日野史談会,1983年)
- 『日野市史. 別巻 (市史余話)』(日野市史編さん委員会,1990年)