義民のあしあと

穴井六郎右衛門(馬原供養塔(龍川寺))


幕府直轄の天領である豊後国日田では、享保の改革の折から、代官として岡田俊惟が派遣され、年貢の増徴や助合穀制度の導入などが行われていました。
これに対して、延享3年(1746)、日田郡馬原村の庄屋・穴井六郎右衛門らは江戸表に出て、年貢の減免と夫食米の借用を求めて越訴に及び、訴状は受理されて一旦は帰国するものの、その後捕らえられて死罪獄門となります(「馬原騒動」)。
処刑後、龍川寺の和尚が首級を密かに持ち出して埋葬したといい、龍川寺には「馬原供養塔」とよばれる義民の墓があります。


目次
  1. 馬原供養塔(龍川寺)の概要
  2. 馬原供養塔(龍川寺)へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

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馬原供養塔(龍川寺)へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

馬原供養塔(龍川寺) [参考リンク]

場所

大分県日田市大字三和財津町3144
(この地図の緯度・経度:33.355638, 130.951889)

備考

国道212号から脇道の日田街道に入って財津公民館近く、るんびにい保育園の奥に「龍川寺」があります。境内の向かって左側に墓域に続く階段があります。
「浄明寺川原刑場」は廃寺となった寺院の跡地で、穴井六郎右衛門関連の遺跡として「嗚呼義民終焉之地」の石碑(緯度経度33.319889, 130.928340付近)が建てられており、墓地の一角にある四角い穴の空いた石は磔の刑架の台座といいます。
「穴井六郎右衛門生誕の地」は、日田市天瀬町馬原の本村地区にあり、当時の屋敷は跡形もありませんが、「義民生誕之地」の石碑が建てられています。道路の入口には「穴井六郎右衛門生誕の地」の看板があります(緯度経度33.307264, 130.991010付近)。
ほかに、日田市大字庄手559の亀山公園(日隈城跡)にも、戦後になって巨大な「義民穴井六郎右衛門之碑」が建てられています。


義民伝承の内容と背景

幕府直轄の天領である豊後国日田では、将軍・徳川吉宗の「享保の改革」の折から、享保19年(1734)に代官として幕府御家人の岡田庄太夫俊惟(としただ)が派遣され、定免法の導入をはじめとして、年貢の増徴や助合穀の新設(救荒用の備蓄米として農民から徴収したが、実際には換金して「助合穀銀」として商人に貸し付け、利息収入を得ていた)などを行います。

このため、凶作にあたり食物にも事欠く農民の困窮はさらに深まる結果となり、日田郡馬原(まばる)村の庄屋・穴井六郎右衛門が代官所に訴えるものの聞き入れられず、百姓の他領への逃散も相次ぎます。

ついに延享3年(1746)、穴井六郎右衛門は71歳の老齢ながら、日田郡・玖珠郡13か村を代表して江戸表に出て越訴することとなり、ほかに六郎右衛門次男の要助、馬原村組頭・飯田惣次が付き添い、年貢軽減と夫食米の借用などを幕府に要求する血判付きの訴状を目安箱に投函し、いったんは投獄されるものの、その年の暮れには釈放されて帰国します。

ところが、国元の代官所からは徒党強訴した罪で再び捕らえられ、穴井六郎右衛門と要介は浄明寺川原で死罪獄門、飯田惣次も死罪となり、その他にも400名以上の百姓が所払いや過料、手鎖などに処せられます。

3人が処刑されたあと、助命嘆願をしていた地元の龍川寺13世の水誉和尚が、身命を堵して獄門台から3人の首級を持ち去って境内に埋葬し、その後、宝暦2年(1752)の七回忌に建てた供養塔が「馬原供養塔」として今に残っています。
なお、この供養塔では公儀を憚って、本名の「六郎右衛門」が「六郎左衛門」と意図的に1字違いになっています。



参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社)はリンク先下部に記載があります。リンクがないものは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で収蔵している場合があります。

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