義民のあしあと

宮村才蔵・山添村清左衛門(天明志士紀念碑)


阿波藩(徳島藩)の支配下にあった淡路島では、厳重を極めた縄の供出などによって農村が疲弊し、天明2年(1782)、たまりかねた12か村の農民たちが大庄屋のもとに大挙して押しかけ、負担軽減を要求します(「縄方騒動」、「淡路国徳島藩領天明二年一揆」)。
徳島藩でも役人による取調べがあり、こうした悪法は廃止されたものの、今次の一揆を主導したとして、淡路国三原郡広田宮村の才蔵、山添村の清左衛門の両名は獄中で斬首され、その首は獄門に懸けられます。
明治時代に自由民権運動とともにその事績が掘り起こされ、一揆ゆかりの地である広田大宮寺の裏手に「天明志士之碑」や「天明志士紀念碑」が建てられました。



義民伝承の内容と背景

阿波藩(徳島藩)の支配下にあった淡路島では、洲本に城代が置かれていましたが、折からの凶作で農村が疲弊している中で、「縄趣法」として、全島の農民に対して縄を供出するように命令が出されます。
縄方役所が置かれ、太縄、中縄、細縄それぞれの規格に合わないものは容赦なく差し戻された上、そのほかにも「増米法」、「木綿会所法」の新法により専売制が強化されますが、これは明治時代の自由民権運動家・小室信介の『東洋民権百家伝』によれば、現地役人の坂東米蔵、高田富次郎と、豪商の吉見平六が結託したものといいます。

天明2年(1782)、たまりかねた広田宮村をはじめとするあわせて12か村の農民たちは、旧暦5月3日夜から19日にかけて、それぞれ大庄屋の屋敷に大挙して押しかけて負担軽減を要求します(「縄方騒動」、「淡路国徳島藩領天明二年一揆」)。

この事態を受けて、本藩の阿波藩からも役人が派遣されて取調べがあり、現地洲本の役人は処罰され、農民の要求どおりに新法は廃止されて旧態に戻りますが、八幡宮の早鐘を鳴らして徒党強訴を煽った一揆の頭取として、淡路国三原郡広田宮村の才蔵、山添村の清左衛門の両名は、翌年の天明3年(1783)に獄中で斬首され、その首は桑間村川原で獄門に懸けられました。

宮村才蔵の首は力士・楓山が夜間ひそかに奪い取って丁重に埋葬したといいますが、故郷のみならず広く淡路島全体でこれら義民の供養が行われたことは、各地に残る石仏や供養塔を見ても明らかです。

洲本市の三木田地区にある石地蔵「才蔵地蔵」は、才蔵を供養するため天明4年(1785)に建立されたもので、江戸時代の淡路島の文人・渡辺月石による地誌『堅磐草かきわぐさ』にも「其の恩義を顧みてひそかに力をあはせ法界の為と称し兼て才蔵菩提の意を含み一大仏石地蔵を三木田村官道の路傍に建立す。其れ党中発起して之を営み才蔵幽魂をてうする所なり云々」と記されています。

「才蔵地蔵」については、才蔵の霊魂が稲につく害虫「才蔵虫」として祟りをなすので地蔵として祀り上げたところ、かえって豊作の御利益があったという伝説もあり、民俗学者・宮田登などが「人を神に祀る風習」の面から注目してきたところです。

同様に、淡路市の東浦地区の横山集落には才蔵の法名「法道覚阿信士」と清左衛門の法名「仙翁智言信士」を併記した供養塔が建立されており、その他島内でいくつかの供養塔が見つかっています。

また、南あわじ市八木地区の盆踊り「大久保踊」も、非業の死を遂げた才蔵の霊を慰めるため、佐尾寺住職の教雲上人が振り付けを指導したものといわれており、現在は兵庫県県無形民俗文化財に指定されています。

明治時代に入ると、自由民権運動の高まりとともに「天明の志士」としてその事績が掘り起こされ、一揆ゆかりの地である大宮寺の裏手には、明治31年(1898)の天長節(天皇誕生日)を期して、自由民権運動の主導者として知られる板垣退助が撰文し、「明治の三筆」のひとりである巌谷一六が揮毫した「天明志士之碑」が建てられました。

同じく明治40年(1907)には阿波藩最後の藩主となった蜂須賀茂韶もちあき題字による「天明志士紀念碑」が建立されており、現在でも地元では毎年3月23日の命日にあたり「天明志士大祭」を開催して顕彰活動に努めています。


天明志士紀念碑へのアクセス

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名称

天明志士紀念碑 [参考リンク]

場所

兵庫県南あわじ市広田広田898
(この地図の緯度・経度:34.327, 134.8282)

備考

「天明志士紀念碑」は、広田八幡神社に隣接する大宮寺境内の裏山、四国八十八ヶ所霊場を祀ったあたりに建てられています。この碑に隣接して板垣退助撰文の「天明志士之碑」、さらにその右に昭和58年(1983)の二百年忌を記念する「天明の一揆と義民碑について」とある石碑が並んでいます。


一揆の際に才蔵が早鐘を打ち農民を集めたという「広田八幡神社」([地図])は、「天明志士紀念碑」がある大宮寺の隣です。なお、明治時代の火災による再建を経ているため、建物は当時のものではありません。


「宮村才蔵の墓」([地図])は、「広田八幡神社」から600メートルほど東側の旧道沿いです。
南あわじ市コミュニティバス「らん・らんバス」の停留所「広田東」と「広田中学校前」のちょうど中間にあたる交差点の角に「才蔵庵」と通称される阿弥陀堂があります。
この阿弥陀堂の道路を挟んだ反対側にある墓地の中で、「法道覚阿進士」と刻まれた墓碑が才蔵のものです。その灯籠を挟んで左手に「秋楓庵己覚信士」とある墓碑は楓山のものです。


「才蔵地蔵」([地図])は、宇山高台配水池のポンプ場に隣接した白いコンクリート造のお堂の内部に安置されています。周囲に目立った目標物がありませんが、特別養護老人ホーム淡路ふくろうの郷の前の公道を道なりに1キロほど南に進んだ場所です。


大久保踊りの「佐尾寺」([地図])は、現在の金剛寺観音堂であり、南淡路広域農道「オニオンロード」沿いに位置しています。


「宮村才蔵・山添村清左衛門供養塔」([地図])は、横山会館に隣接する墓地にあり、地蔵坐像の左隣にある2人の法名を刻んだものです。



参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

近畿地方 宮村才蔵 山添村清左衛門 縄騒動