遠藤兵内

スポンサーリンク

義民伝承のある場所の概要

江戸幕府は東海道はじめ五街道を整備し、途中に宿場を設けて人馬の継立てができるようにしましたが、不足の場合は周辺の農村から人馬を徴発する助郷を課していました。
中山道では朝鮮通信使の通過などにあわせて、この助郷役の負担が増大し、ついに明和元年(1764)以降、総勢20万人規模の百姓が参加したという、武蔵・上野・信濃・下野の4か国にまたがる大一揆「伝馬騒動」が勃発します。
幕府は事態を沈静化させるため、百姓の要求を全面的に受け入れますが、後日、武蔵国児玉郡関村(今の埼玉県美里町)の名主・遠藤兵内が頭取として獄門に処せられたほか、他の多くの百姓が処罰されます。
人々は遠藤兵内を「義民」として讃え、兵内の供養塔を建てたり、兵内踊りをつくったりして、その菩提を弔いました。


 義民遠藤兵内の墓の所在地や地図は次のとおりです。

 ここに地図が表示されるまでしばらくお待ち下さい。
 右下のロゴをクリックすると大きな地図に遷移します。
Webサービス by Yahoo! JAPAN
名称 義民遠藤兵内の墓
所在地 埼玉県児玉郡美里町関地内
リンク [関連サイトに遷移]
備考 「義民遠藤兵内お宮(関兵霊神社)」が、県道75号熊谷児玉線沿いの関集会所の真裏にあたる埼玉県児玉郡美里町関374番地所在・児玉神社境内(緯度・経度で 36.193872, 139.194035)にあります。
この関集会所の敷地境界近くに「義民遠藤兵内の墓」の案内表示板が立っているため、案内に従って北東に200メートルほど進むと、墓地のある関観音堂(36.195246, 139.195765)に行き着きます。
遠藤兵内が処刑、獄門に架けられた場所にあたる「義民遠藤兵内之碑」は、集会所から150メートル東の新大橋西詰(36.192794, 139.195423)に庚申塔などとともに建っていますが、道路改良工事で別の場所から現在地に移転した旨の記載があります。
  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。


解説

江戸幕府は江戸日本橋を起点とした東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道のいわゆる「五街道」を整備し、途中に宿場を設けて人馬の継立てができるようにしましたが、不足があった場合には、宿場周辺の農村から人馬を徴発して補充する「助郷」の制度もあわせて導入していました。

明和元年(1764)には徳川家治の第10代将軍襲封を慶賀する朝鮮通信使(正使は日本から救荒作物としてサツマイモを朝鮮半島に持ち帰った趙曮:チョ・オム)が来日したほか、翌年に東照宮百五十回忌の法要を控えていたこともあって、幕府は中山道の交通量増大を理由に、国役金や増助郷役の賦課などの増徴政策をとり、農民の負担は一気に高まりました。

このため、明和元年(1764)閏12月、増助郷役などに反対して蜂起を促す「天狗触れ」と呼ばれる廻状が村々に回され、身馴川(今の小山川)の十条河原に本庄宿の助郷村となっている児玉郡ほかの農民数千人が集結、本庄宿で打ち壊しが起こったのを皮切りとして、大勢の農民が江戸へと強訴に向かう流れが生まれます。

こうして翌年正月にかけて、一揆はまたたく間に信濃、上野、武蔵、下野の4か国に広がり、「島原以来の大騒動」として、総勢で200か村以上、20万人規模が参加したという「伝馬騒動」(または「天狗騒動」「武上騒動」とも)が勃発します。

幕府は関東郡代・伊奈半左衛門忠宥(ただおき)に鎮圧を命じたものの、手に負えない事態となったため、農民の要求を全面的に受け入れることで収束させる道をとりますが、一揆の余韻はなおも続き、特に正月早々には村役人や商人宅などあわせて20軒ほどが打ち壊しの被害に遭っています。

この明和伝馬騒動後、幕府は責任者の追及を厳しくし、武蔵国児玉郡関村(今の埼玉県児玉郡美里町)の名主・遠藤兵内(関村兵内、関兵内:ひょうない)が一揆の頭取として明和3年(1767)に在所で処刑され、獄門として志戸川べりにその首が晒されたほか、賀美郡植竹村(今の児玉郡神川町)の田村杢之助が獄死、他にも主だった名主の役儀追放をはじめとして、4か国の農民あわせて360人余りが処罰されました。

その後、地元では遠藤兵内を「兵内様」として讃え、供養塔を建てて菩提を弔ったほか、江戸幕末の文久3年(1863)には漢学者の名主・中沢喜太夫が白川神祇伯家から「関兵霊神」の霊神号を得て若宮八幡宮(今の児玉神社)の境内末社に人神として祀り、あわせて「兵内踊り」や「関兵霊神くどき」をつくります。

現在でも関観音堂の境内に「義民遠藤兵内の墓」とされる宝筐印塔が残り、美里町の文化財に指定されているほか、改修の際にその胎内から木製小宝篋印塔や寄進札などの遺物も発見されています。
「兵内踊り」や「関兵霊神くどき」も地元に伝わり、毎年2月13日の命日には社前で「兵内霊神祭」が執り行われるなどして顕彰されています。


参考文献

Amazon アソシエイト

リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されている)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

日本地図

Amazon アソシエイト