義民のあしあと

小林孫左衛門




義民伝承地の概要

宝暦4年(1754)、奥殿藩領の信濃国田野口村では不作となったため、百姓らは年貢減免を求めて直訴のため江戸に向かいます。

この騒動は一旦は終息しますが、藩の回答を不満として、領内17か村の百姓3千人が陣屋を囲んで強訴に及び、再び直訴を企てます。

この際、割元の小林孫左衛門の働きにより、一部の年貢減免が認められたものの、責任を一身に負って小林孫左衛門は打首・闕所となり、他にも所払いや手鎖の処罰を受けた百姓が多数に上りました。

小林孫左衛門の処刑後、村人らによってひそかに墓碑がつくられ、その後昭和に入ってからも、小林孫左衛門を「義民」として称える石碑が造立されました。

義人小林孫左衛門之碑の地図

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名称 義人小林孫左衛門之碑
所在地 長野県佐久市田口地内
備考 能満寺と呼ばれる小さな寺院の前の市道沿いに建っています。函館と並んで日本に2つしかない五稜郭(龍岡五稜郭、龍岡城、桔梗城)の遺構から300メートルほど東側です。
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  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

今の長野県の佐久地方には、江戸時代には松平家(大給松平家)が支配する1万6千石の小藩・奥殿藩(田野口藩、龍岡藩とも)の領地があり、陣屋が置かれていました。

宝暦4年(1754)、信濃国佐久郡田野口村では、浅間山の噴火による降灰被害なども重なり不作となったため、百姓らは田野口陣屋の郡代・深津源太夫に年貢減免を求めます。
これが聞き入れられなかったため、一部の百姓が江戸まで出向き、役人の横暴を出訴しようとする騒ぎが起こります。

この一件はいったんは終息しますが、再び領内17か村の百姓3千人が雨川原に集結し、陣屋を囲んで強訴に及び、藩が年貢の一部減免を回答して慰撫したのも聞かずに江戸での直訴を企てたことから、対立はさらに先鋭化します。

このとき、割元(他でいう大庄屋)の小林孫左衛門清茂は、藩から年貢減免の約束を取り付けるかわりに、各村から名主を呼び寄せて藩に詫び状を提出させ、一揆勢にも帰村を促して事態を沈静化させます。

その後、江戸から派遣されてきた奉行の中村長兵衛らによる一揆首謀者の追及がはじまり、割元の小林孫左衛門が責任を一身に負って打首・闕所と決まり、他にも所払いや手鎖の処罰を受けた百姓が多数に上りました。

宝暦6年(1756)、小林孫左衛門は、田野口村幸ノ神において36歳の若さで処刑され、その遺骸は村人らによって曹洞宗の大梁山蕃松院に葬られ、ひそかに墓碑がつくられたほか、屋敷は天童山大徳寺の庫裏として移築されます。

昭和15年(1940)、紀元二千六百年を記念して、郷土の偉人である小林孫左衛門を称えるため、当時近衛内閣の司法大臣を務めていた風見章の題額による「義人小林孫左衛門之碑」石碑が造立されました。

参考文献・参考資料

  • 佐久の騒動と一揆 (千曲川文庫)
  • 『信濃の百姓一揆と義民伝承』(横山十四男、郷土出版社 1986年)
  • 『南佐久郡誌』近世編(南佐久郡誌編纂委員会、南佐久郡誌刊行会 2002年)

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