伏見義民小林勘次

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義民伝承のある場所の概要

江戸初期の元和年間、淀川の船銭が値上げされ、伏見の商人や旅人が難儀をしていたことから、薪炭商の小林勘次が江戸に出て幕府に直訴し、朱印状をもらって船銭は元に戻されます。
しかし、小林勘次は京都に帰る途中で暗殺されたといいます。
明治時代になって、小林勘次を義民として讃える石碑が造立されました。


 伏見義民小林勘次碑の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 伏見義民小林勘次碑
所在地 京都市伏見区下板橋町575
リンク [関連サイトに遷移]
備考 伏見板橋幼稚園の東隣にある玄忠寺の境内、山門から入った正面にあります。(山門に柵がありますが山門越しに見えます。)
  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。


解説

江戸初期の元和年間、淀川の通行料にあたる船銭が淀川奉行により値上げされ、町民は何度も減額を訴えるものの実現しませんでした。
もとは丹波国から移り住んだという薪炭商の小林勘次は、伏見の商人や旅人が難儀をしているのを見て義憤にかられ、江戸に出て幕府に直訴した結果、幕府からの朱印状を勝ち取ります。

元和4年(1618)4月26日、小林勘次は京都に帰る途中、東海道の鞠子宿(今の静岡県静岡市駿河区丸子)で突然に亡くなりますが、あらかじめ暗殺を予見していた小林勘次は、朱印状を魚の腹に隠して使いの人間に持たせていたため、小林勘次が亡くなっても朱印状という証拠書類が残り、船銭は元に戻されたといいます。

明治23年(1890)、この事績を顕彰するため、伏見の薪炭商共進組合が、新政府の役人で能書家でもあった西尾為忠に撰文を依頼し、小林勘次の墓がある玄忠寺境内に「伏見義民小林勘次碑」が建てられました。


参考文献

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リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されている)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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