義民のあしあと

伏見義民小林勘次(伏見義民小林勘次碑)



江戸初期の元和年間、淀川の船銭が値上げされ、伏見の商人や旅人が難儀をしていたことから、薪炭商の小林勘次が江戸に出て幕府に直訴し、朱印状をもらって船銭は元に戻されます。
しかし、小林勘次は京都に帰る途中で暗殺されたといいます。
明治時代になって、小林勘次を義民として讃える石碑が造立されました。


目次
  1. 伏見義民小林勘次碑の概要
  2. 伏見義民小林勘次碑へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献



伏見義民小林勘次碑へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

伏見義民小林勘次碑 [参考リンク]

場所

京都市伏見区下板橋町575
(この地図の緯度・経度:34.9378, 135.7624)

備考

伏見板橋幼稚園の東隣にある玄忠寺の境内、山門から入った正面にあります。(山門に柵がありますが山門越しに見えます。)


義民伝承の内容と背景

江戸初期の元和年間、淀川の通行料にあたる船銭が淀川奉行により値上げされ、町民は何度も減額を訴えるものの実現しませんでした。
もとは丹波国から移り住んだという薪炭商の小林勘次は、伏見の商人や旅人が難儀をしているのを見て義憤にかられ、江戸に出て幕府に直訴した結果、幕府からの朱印状を勝ち取ります。

元和4年(1618)4月26日、小林勘次は京都に帰る途中、東海道の鞠子宿(今の静岡県静岡市駿河区丸子)で突然に亡くなりますが、あらかじめ暗殺を予見していた小林勘次は、朱印状を魚の腹に隠して使いの人間に持たせていたため、小林勘次が亡くなっても朱印状という証拠書類が残り、船銭は元に戻されたといいます。

明治23年(1890)、この事績を顕彰するため、伏見の薪炭商共進組合が、新政府の役人で能書家でもあった西尾為忠に撰文を依頼し、小林勘次の墓がある玄忠寺境内に「伏見義民小林勘次碑」が建てられました。



参考文献・参考資料


リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。



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