和田佐助

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義民伝承のある場所の概要

越中国砺波郡佐野村では、肝煎の佐助らによって、北陸街道沿いの和田の町立てが行われますが、新開地に移り住んだ百姓らは重税に苦しみます。
これを見かねた佐助は、隠田を開いて村の負担を軽くしようとしたものの、高岡藩に露見し、磔によって処刑されてしまいます。
しかし、このことによって租税が免除されたことから、村では佐助大明神として感謝し、好物のいもがい餅を供える佐助祭りを行うようになったといいます。


 和田の佐助顕彰碑の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 和田の佐助顕彰碑
所在地 富山県高岡市和田地内
リンク [関連サイトに遷移]
備考 神明宮は富山県道275号の北陸街道沿いに鎮座し、境内入口に「村社神明宮」の社号標があります。石碑は境内正面右手のわかりやすい位置に、和田佐助を祀る小祠とともにあります。
  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。


解説

加賀藩2代藩主・前田利長は、居城の富山城が火災により焼失したため、新たに関野の地で築城を行い、城下を「高岡」と名付けて武士や商人、職人を呼び寄せます。
一国一城令によって高岡城が廃城になったあとも、藩では引き続き商人や職人らを足止めして、経済都市として発展させる道をとります。
こうした中、慶安2年(1649)には、高岡町奉行に対する砺波郡佐野村佐助の嘆願によって、高岡と金沢を結ぶ北陸街道沿いの佐野村和田野の町立てが許可されます。

しかし、新開地に移り住んだ百姓たちは重税に苦しみ、逃散が相次いだため、和田村の肝煎となった佐助は、村を救うために隠田を開発し、これが高岡藩に露見して、万治3年(1660)に磔によって処刑されます。
処刑の直前、赦免の使者が早馬で駆けつけ、祖父川の橋の羽目板の三枚目を踏んで叫んだものの、執行の合図と聞き間違えて処刑されてしまったので、その橋を三枚橋と呼ぶといった言い伝え(墓地や火葬場を示す三昧場の謂か)もあるといいます。

町立ての嘆願については、富山大学附属図書館に「利波郡佐野村田地の内、和田野の町立につき願書」として古文書が残ることから史実としては明らかなものの、処刑の一件については不明な点もあります。
しかし、困窮する百姓を見かねての行為として、後に和田村の地租地子が免除されたため、村では佐助大明神と仰いで佐助祭を風習が生まれたといい、現在でも、町立てが許可された10月15日(旧暦では9月15日)には、地元にある和田神明宮の佐助殿に、佐助の好物だった「いもがい餅」(里芋と米を炊いて潰し、きな粉や餡をまぶしたおはぎの一種)が供えられるほか、町内の軒先に行灯が掲げられています。


参考文献

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リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されている)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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