義民のあしあと

工藤治兵衛(治兵衛堂)


江戸時代初めの西条藩は一柳氏の領地でしたが、石鎚山麓の村々では米が穫れず難儀をしていたため、年貢米の銀納を求めて、中奥山庄屋・工藤治兵衛らが藩主に直訴に及びます。
しかし、願いが聞き届けられることはなく、寛文4年(1664)、工藤治兵衛とその倅5人をはじめ、16人が捕らえられて処刑されました。
処刑の際、哀れんだ執刀人が子供にミカンを与えると喜んで食べたが、処刑後の頸の切り口からミカンが出てきたという陰惨な話も伝わっています。
寛文5年(1665)には藩主・一柳直興が失政を理由に改易され、一時収公されて松山藩預かりとなったことから、捕縛された中で生き残った大保木山庄屋・高橋平左衛門が嘆願を続けた結果、寛文10年(1671)、ついに銀納が認められます。
村では工藤治兵衛の墓や「治兵衛堂」を建てて供養し、「銀納義民」として語り継いできました。


義民伝承の内容と背景

江戸時代初めの西条藩は一柳(ひとつやなぎ)氏の領地でしたが、険峻な石鎚山の麓にある伊予国新居郡の大保木(おおふき)山、中奥山、東之川山、西之川山、黒瀬山の5か村では、米が満足に穫れず難儀をしていたため、年貢米の銀納を求めてしばしば嘆願に及びますが聞き入れられませんでした。

年貢米の納付を買米に頼る状況で米価高騰に耐えられなくなった5か村では、寛文4年(1664)、中奥山庄屋・工藤治兵衛が頭取となって、5か村を銀納請所とするよう藩庁に強訴に及びます。

しかし、願いが聞き届けられることはなく、工藤治兵衛とその倅5人をはじめ、16人が捕らえられて同年中に処刑されました。
天保年間に西條藩主の命を受けて儒者の日野和煦(にこてる)が編纂した『西條誌』には、処刑の際、哀れんだ執刀人が子供にミカンを与えると喜んで食べたが、処刑後の頸の切り口からミカンが出てきたという陰惨な話も伝わっています。

寛文5年(1665)、藩主・一柳直興は「政事よからず」と失政を理由に改易され、この地域は一時収公されて松山藩預地となりますが、捕縛された中で生き残った大保木山庄屋・高橋平左衛門が嘆願を続けた結果、寛文10年(1670)、ついに5か村の諸運上の銀納が認められ、10年越しの悲願が叶います。

村では工藤治兵衛の墓や「治兵衛堂」を建てて供養してきましたが、明治時代に入ると再び「銀納義民」として顕彰され、高橋平左衛門の墓がある大保木の極楽寺に石碑が建てられたほか、平成26年(2014)には地元の「石鎚ふれあいの里」ほかで「銀納義民350周年記念事業」が挙行され、新たな記念碑も造られました。


治兵衛堂へのアクセス

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名称

治兵衛堂 [参考リンク]

場所

愛媛県西条市中奥2号地内
(この地図の緯度・経度:33.833332, 133.141787)

備考

「治兵衛堂」は、松山自動車道「いよ西条」インターチェンジから車で30分ほどの、かなりの山奥にあります。付近のランドマークとしては、「石鎚ふれあいの里」のキャンプ・バーベキュー場、バンガローがある程度です。最寄りの愛媛県道12号線から分岐する擁壁に「工藤治兵衛の墓」と小さな案内板があります。現地の「治兵衛堂」は墓に隣接し、史跡を示す標柱があります。


参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。

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