田坂市良右衛門(義民田坂市良右衛門碑)
江戸末期の安政年間、周防国玖珂郡には岩国藩吉川家の領地として代官所が置かれていましたが、玖珂代官は賄賂を好み重税を課し、客人を呼んで贅沢にふけります。
大年寄格の田坂家にあった田坂市良右衛門が諌めたところ、かえって代官の怒りに触れ、岩国山に幽閉された上、瀬戸内海の柱島に流されてしまいます。
しかし、村民が家老の吉川采女に訴えたために釈放され、後に庄屋の助役にあたる刀祢に任命されて善政に努めたことから、地元で頌徳碑が建てられました。
義民伝承の内容と背景
江戸末期の安政年間、周防国玖珂郡には岩国藩吉川家の領地として代官所が置かれ、玖珂組の玖珂、祖生、伊陸、田尻、中山、川上、須通の7ヶ村を支配していました。
しかし、玖珂代官は賄賂を好み、村々に重税を課し、会所を建てて客人を呼んで贅沢にふけったため、村々からの怨嗟の声が高まります。
そこで、先祖が備後国で小早川家に仕えていたという代々の大年寄格の田坂家の三男・田坂市良右衛門(田坂重房)が代官に直談判して諌めたところ、かえってその怒りに触れ、御上を誹謗するものとして岩国山に265日にわたって幽閉された上、瀬戸内海の柱島に流されてしまいます。
しかし、原田某はじめ村民たちが家老の吉川采女に訴えたために釈放され、後に庄屋の助役にあたる刀祢に任命されて(岩国藩での村役人は庄屋・刀祢・組頭)、後任の代官を説得して会所を取り払い、税を軽くするなどの善政に努めます。
幕末の長州征伐(四境の役)の際には農民に剣術を教えたといいますが、明治2年(1869)に41歳で亡くなり、その葬儀には2千人が参列したといいます。
大正10年(1921)には、地元有志により、京都帝国大学の狩野直喜(東洋史学)が撰文、陸軍大将大迫尚道(旅順攻略に参加、第18師団長、第4師団長や軍事参議官を歴任)が揮毫した頌徳碑が玖珂の街道沿いに建てられました。
義民田坂市良右衛門碑へのアクセス
名称
- 義民田坂市良右衛門碑 [参考リンク]
場所
- 山口県岩国市玖珂町地内
(この地図の緯度・経度:34.096329, 132.085417) 備考
- 国道2号から分岐する八幡下交差点から南西350メートルほと、旧山陽道にあたる県道144号沿い、岩国市消防団玖珂方面隊第2分団の消防器庫わきの空地にあります。
参考文献
- 『玖珂町誌』(玖珂国民学校町誌編纂会、1942年)