久末義民

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義民伝承のある場所の概要

元禄年間、武蔵国久末(ひさすえ)村は旗本の佐橋内蔵之助の領地でしたが、検地により石高を増して過酷な年貢の取り立てを行います。
そこで百姓20人が江戸で年貢減免を求めて門訴に及ぶものの捕らえられ、1人を除き全員が殺害されてしまいます。
その後ようやく年貢が減らされますが、村人たちは犠牲者を供養するため折あるごとに地蔵を建て、いつしかそれが「義民地蔵」と呼ばれ、川崎市内の妙法寺境内ほかに残されることとなりました。


 久末義民地蔵の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 久末義民地蔵
所在地 神奈川県川崎市高津区久末375
リンク [関連サイトに遷移]
備考 周辺は住宅がかなり建て込んでいますが、久末の義民地蔵は妙法寺境内の本堂左側の安置堂のなかに2体(立像と半跏像)納められています。
他にも川崎市バス「イノ木」バス停付近の住宅街のお堂(緯度経度 35.566043, 139.622682)の中にも寛政7年建立の義民地蔵があります。
  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。


解説

江戸時代の武蔵国橘樹郡久末村(今の川崎市高津区久末)は、江戸で奢侈に耽る旗本・佐橋(さはせ)内蔵之助佳純の領地でしたが、元禄6年(1693)の検地によって石高が無理やり100石ほど増やされ、年貢の負担も過酷を極めるようになりました。

このため、蓮花寺の祐長上人に相談するものの術なく、ついに蓮華寺が訴状を代筆の上で江戸四谷にある佐橋佳純の屋敷で年貢減免を求めて門訴に及ぶこととなります。
はじめ村から3名が選ばれて江戸に赴くものの村に戻らず行方不明となり、次いで6名が送られますが同様に帰らず、最後に村から江戸に送り込まれた鈴木平左衛門をはじめとする20名は、全員が捕らえられて牢に入れられ、うち19名までが毒殺され、1名のみが生きて逃げ延びたため、佐橋によって百姓らが殺害されていたことが明らかとなります。

その後村では年貢が引き下げられますが、門訴事件から時を経た延享3年(1746)になって、久末村の名主らが犠牲者の霊を供養するために村境に地蔵尊を建立、次いで明和元年(1764)に蓮華寺境内に宝篋印塔を建立、さらに寛政元年(1789)や寛政9年(1797)にも地蔵尊が建立され、いつしかこれらは「義民地蔵」と呼ばれるようになります。

昭和56年(1981)、地元講中の浄財により、川崎市高津区の妙法寺境内に安置堂が建立され、もとは中原街道沿いにあった義民地蔵2体が遷座し、改めて落慶法要が執り行われたほか、現在でも7月の地蔵盆に追善供養が行われています。


参考文献

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リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されている)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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