義民のあしあと

庄屋源吉(義人庄屋源吉頌徳碑)



三河国渥美郡高足村(今の愛知県豊橋市)では江戸後期に凶作が続き、若くして庄屋になった源吉は年貢の減免を求めて吉田藩に嘆願を行いますが、田租免除を勝ち取る代わりに強訴の故をもって死罪となります。
村民の嘆願により死罪は免れたものの、長らく入牢していたために病を得て程なく亡くなってしまいます。
没後は庄屋源吉のために毎年の施餓鬼供養が営まれるようになり、昭和に入ってから義人庄屋源吉頌徳碑も建てられました。



目次
  1. 義人庄屋源吉頌徳碑の概要
  2. 義人庄屋源吉頌徳碑へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

義人庄屋源吉頌徳碑へのアクセス

名称 義人庄屋源吉頌徳碑
場所 愛知県豊橋市上野町上原103-1
(地図の緯度・経度:34.7202, 137.3905)
備考
「義人庄屋源吉頌徳碑」は圓通寺境内の本堂から見て西側のほうにあります。
「義民庄屋源吉之墓」は圓通寺から西に直線距離で500メートルほど離れた、かつての圓通寺末寺にあたる奥谷寺(おくこうじ)の裏手の山の中の墓地(34.7205, 137.3804)にありますが、かなり小さな墓石となっています。
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注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

義民伝承の内容と背景

三河国渥美郡高足村(今の愛知県豊橋市)では江戸後期に凶作が続き、明和6年(1769)に18歳の若さで高足村庄屋になった源吉は、百姓の窮乏を救うために他の庄屋とともに三河吉田藩に年貢減免を求めて嘆願を行います。
その際に庄屋源吉は仮病を使って検見をする役人を作柄がたまたま良かった田に向かわせないようにしたり、他の庄屋が訴えを取り下げても執拗に嘆願を繰り返すなどしたといいます。
結果として三河吉田藩から田租138石の免除を勝ち取りますが、それと引き換えに強訴の罪を問われた庄屋源吉は死罪と決まります。

庄屋源吉が死罪と決まったことに対して、村人らは吉田三ヶ寺の悟真寺などの地元の有力寺院とともに減刑の嘆願活動を行い、辛くも死罪を免れますが、長らく入牢していたために病を患い、安永4年(1775)には亡くなってしまいます。

村人らは庄屋源吉の遺徳を偲び、菩提寺の円通寺で毎年7月1日に施餓鬼供養を営むようになり、昭和に入ってからは円通院境内に「義人庄屋源吉頌徳碑」が建てられ、最近では市制施行100週年を記念した「とよはし100祭」において、地元有志による創作劇『梅田川物語 庄屋源吉』も上演されました。


参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)はリンク先下部に記載があります。リンクがない参考文献は、一般に流通していない稀覯本や私家本が多いものの、国立国会図書館で貸出をしている場合があります。

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