義民のあしあと

義民白田六右衛門(義民白田六右衛門顕彰碑)



江戸時代の元禄年間、多胡村(今の群馬県高崎市)では大干魃のため飢饉に陥り、これを見かねた名主の白田六右衛門は、年貢米の殻倉を開いて百姓に分け与えて窮状を救いますが、捕らえられて死罪となります。
以来、地元では密かに供養が続けられてきましたが、現在では墓がある龍源寺に顕彰碑が建てられています。



目次
  1. 義民白田六右衛門顕彰碑の概要
  2. 義民白田六右衛門顕彰碑へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と歴史的背景
  4. 参考文献


義民白田六右衛門顕彰碑へのアクセス

名称 義民白田六右衛門顕彰碑
場所 群馬県高崎市吉井町大字多胡776
(地図の緯度・経度:36.2382, 138.9887)
リンク [クリックして遷移]
備考
「義民白田六右衛門顕彰碑」は上信越自動車道吉井インター近くの曹洞宗慈雲山松田院龍源寺の山門手前、参道沿いに他の石碑とともにあります。
注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

義民伝承の内容と歴史的背景

江戸時代の元禄年間、多胡村(今の群馬県高崎市)は公家から武家に転身した旗本松平信平の知行地として代官が支配していましたが、大干魃による飢饉で百姓は餓死寸前の有り様でした。

これを見かねた庄屋の白田六右衛門は、領主から預かっていた年貢米を納めた穀倉を開いて百姓に分け与え、この窮乏を救いますが、もとより領主の許しを得ずにした行為のために捕らえられ、村人たちの助命嘆願も虚しく、元禄2年(1689)5月、24歳の若さで龍源寺前のきゅうり畑(今の龍源寺駐車場の辺り)において死罪となります。

これより以降、白田家ではきゅうりを作らない習わしとなったほか、地元では白田六右衛門が処刑された場所の近くに祠を建てて密かに供養を続けてきましたが、昭和63年(1988)に墓地がある龍源寺に顕彰碑が建てられ、石祠もその脇に遷されました。


参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)はリンク先下部に記載があります。リンクがない参考文献は、一般に流通していない稀覯本や私家本が多いものの、国立国会図書館で貸出をしている場合があります。

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