義民のあしあと

岩本源三(源三神社)


江戸時代の壱岐は松浦藩が支配していましたが、役人が年貢を計量する枡を操作して蓄財したり、農民に田地を割り当てる地割にあたっても役人が良田をせしめるなどの不正があったことから、可須村の岩本源三が江戸に上って将軍・徳川家斉に直訴に及びます。
源三は捕らえられて江戸から平戸、壱岐へと護送され、壱岐の百県馬場の刑場で処刑されたといいます。
後に明治時代になってから、源三を義人として顕彰する目的で源三神社が建てられました。


目次
  1. 源三神社の概要
  2. 源三神社へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献


源三神社へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

源三神社 [参考リンク]

場所

長崎県壱岐市勝本町東触地内
(この地図の緯度・経度:33.851624, 129.713927)

備考

小高い丘の上に鎮座し、百姓源三神社の看板はありますが分かりにくい場所です。途中の参道沿いに壱岐四国八十八ヶ所霊場第六番札所高尾堂があるのでさらに奥へ進みます。神社の名はあるものの御崎神社の中の石祠の一つです。


義民伝承の内容と背景

江戸時代の壱岐は松浦藩が支配していましたが、役人が年貢を計量する枡を操作して、百姓から年貢を取り立てるときは容積が3斗5升と大きな納枡を用い、給与のときは3斗2升と小さめの京枡を用いて、差額3升分を不正に蓄財していました。

また、壱岐では百姓の世帯構成などをもとに定期的に耕作する田畑を割り当て直す地割制がとられていましたが、地割奉行の中尾丹弥は、自身も可須村(今の長崎県壱岐市勝本町)で耕作をしていたことから、良田を先取りして自分のものにし、残りを他の百姓に割り当てる不正を行います。

これに対して憤った可須村の岩本源三(源蔵)は、江戸に上って将軍・徳川家斉へ直訴することを企て、察知した中尾丹弥が夜中に槍をもって密かに寝所を襲ってきたときには、鉈で槍の穂先を切り落として証拠として持ち去り、そのまま船で逃走したとも伝えられます。

源三は江戸に潜伏し、将軍の行列に出くわした機会に駕籠に訴状を投げ込んで目的を果たすものの捕縛されてしまい、江戸からまず平戸藩に送り返され、平戸の牢屋からさらに壱岐へと送られます。

壱岐では丹弥の屋敷の馬小屋に押し込められ、市中を曳き廻された上で、文政3年(1820)に壱岐の百間馬場の刑場において43歳で処刑され、その後幕府から呼び出しがあったときには既にこの世にはいなかったといわれます。

江戸時代が終わり明治時代になると、藩や幕府をはばかる必要がなくなったことから、源三を義人として顕彰する目的で立派な墓が営まれ、明治31年(1898)には百姓源三を神として祀る源三神社が建てられました。



参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社)はリンク先下部に記載があります。リンクがないものは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で収蔵している場合があります。

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