山神源治宮(椎名源治の義民伝承)

山神源治宮 義民の史跡
領主の苛政を訴えて生埋めにされた義民を祀る

寛文2年(1662)、下総国香取郡牧野村(今の千葉県香取市)の椎名源治は地頭・黒川左馬の苛政を公儀に訴え、生埋めにして処刑されたといわれています。宝暦3年(1753)、椎名源治は石祠に祀られ、現在では社殿もつくられて「山神源治宮」となっています。

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義民伝承の内容と背景

寛文2年(1662)、下総国香取郡牧野村では凶作により村人が困窮したため、椎名源治という人が地頭の黒川左馬による苛政を公儀に訴え出ました。

源治は房総半島の名門として知られる千葉家の流れを汲む椎名家の出自で、豊臣秀吉の小田原征伐で主家が所領を没収され滅亡したため帰農した一族といい、生前は酒を好み義侠心があったともいいます。

しかし、黒川左馬は源治のこの行動を憎み、村内を引回しの上、寛文2年(1662)11月15日、穴に生埋めにして処刑してしまいました。

源治の死後、青灰色をした異様な蛇が出現し、村では疫病が流行しますが、源治の引回しの途中で盃を献じて酒を呑ませた家だけが、なぜか無事だったといいます。

大いに驚いた村人たちは、源治の霊を鎮めるため、源治が生埋めにされた場所に宝暦3年(1753)に石祠をつくって祀り、明治18年(1885)には社殿を新築、昭和56年(1981)にも大改修を行って、今も「山神源治宮」として崇めています。

境内周囲には近世の塚がいくつか見られますが、特に椎名源治処刑と関連した事実を示す古文書はなく、地元の牧野区にただ口碑としてのみ残るのみです。

「源治屋敷」と称する屋敷地の跡は今の観福寺の裏手あたりに空地となって残り、源治の墓は観福寺の観音堂脇の境内墓地にあるということです。

参考文献

「山神源治宮の由来」(牧野区長小貫衛・氏子総代代表岡沢正夫 昭和57年)
「椎名源治様 顕彰之記」(牧野区氏子総代香取晋一 平成26年)

山神源治宮へのアクセス

名称

山神源治宮

場所

千葉県香取市牧野地内

備考

東関東自動車道「佐原香取インターチェンジ」から車で10分。JRバス「観福寺前」バス停脇の擁壁に「山神源治宮表参道入口」の看板があります。そのままコンクリートの階段になっている参道を上ると、くの字に折れて源治宮の朱塗りの社があります。

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]