義民六人士

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義民伝承のある場所の概要

玄界灘に面し、近世から近代にかけて「津屋崎千軒」と呼ばれる繁栄を誇った筑前国宗像郡津屋崎(いまの福岡県福津市)は、かつてその北側に位置する勝浦との間での境界争いが絶えませんでした。
そこで津屋崎の浦庄屋・左兵衛をはじめとする6人が黒田藩に直訴し、この6人が重さ300貫(1トン以上)の大石を担ぎながら浜辺を歩いて力尽きるか、または大石を結わえた縄が切れた場所をもって境界とすることになりました。
寛永17年(1640)、浦奉行の立会いのもとで実行に移されるものの、6人は力尽きることなくどこまでも担ぎ続けたため、浦奉行が抜刀して強制的に縄を切ったといいます。
こうして津屋崎と勝浦との境界争いに終止符が打たれるものの、庄屋ら6人は直訴をしたために処刑され、地元の危機を救った「義民六人士」として教安寺に埋葬されたほか、「六社宮」や「六之神社」に祀られました。


 六之神社の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 六之神社
所在地 福岡県福津市津屋崎4丁目33-1
リンク [関連サイトに遷移]
備考 波折神社の境内社として社殿の右奥に「六之神社(ろくしじんじゃ)」の石鳥居と石祠があります。似たような境内社がいくつかありますが、扁額や台座に社号が刻まれています。
「義民六士の巨石」は、県道502号線沿い、津屋崎第3排水機場近くの白石浜海岸(33.821462,130.4754413)にあり、「六社宮」の鳥居がすぐ裏の松林に見えます(社殿はない)。
「義民六子之首塚」は、津屋崎千軒民俗館「藍の家」に隣接する「教安寺」(福岡県福津市津屋崎4丁目14-29:33.789085,130.46357)の境内の六角形の建物になります。
  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。


解説

玄界灘に面し、近世から近代にかけて「津屋崎千軒」と呼ばれる繁栄を誇った筑前国宗像郡津屋崎(いまの福岡県福津市)は、かつてはその北側に位置する勝浦との間での漁場争いが絶えませんでした。

これは近海に岩場が迫る地形の上に村の人口も多く、漁業で生計を立てるには困難な環境だったことも災いしていますが、津屋崎の浦庄屋・佐兵衛を筆頭に、組頭・七郎兵衛、長兵衛、甚兵衛、作右衛門、孫右衛門が一致して、この困難を打開するために黒田藩に直訴を行います。

その結果、浦奉行の立ち会いのもとで、6人が重さ300貫(1トン以上)の大石を担ぎながら浜辺を歩いて力尽きるか、または藤蔓でつくった大石を結わえた縄が切れた場所をもって境界とすることになりました。

寛永17年(1640)6月1日、この境界確認が実行に移されるものの、6人は力尽きることなく延々と白石浜の海岸を10町(約1キロメートル)ほども担ぎ続けたため、さすがの浦奉行も刀を抜いて強制的に綱を切り捨て、そこが津屋崎と勝浦との浦境に決まったといいます。

こうして津屋崎と勝浦との境界争いに終止符が打たれ、漁場拡大に成功するものの、庄屋佐兵衛ら6人は直訴に及び不埒な振る舞いがあったとして翌日には箱崎浜で斬首され、佐兵衛は辞世として「骨くだく 思いもしぶきと 消へさりぬ 白石浜の 今日の夕映へ」と詠んだと伝えられています。

処刑された6人は津屋崎の教安寺に埋葬され、首塚として「六角堂」に墓碑が造立されていますが、天保5年(1834)には黒田藩から義民として祭祀を許されたため、「六之(ろくし)神社」や「六之宮」にも神として祀られ、近くは昭和43年(1968)に地元の津屋崎漁業協同組合が白石浜海水浴場の外れに「六人士の歌碑」を建てて顕彰しています。


参考文献

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リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されている)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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