昆野八郎右衛門(昆野八郎右エ門神社)
江戸時代のはじめ、陸奥国磐井郡釘子村(今の岩手県一関市の一部)は仙台藩の石川大和が治めていましたが、贅沢に耽り調達金などとして重税を課していました。
肝煎の昆野八郎右衛門は農民の苦衷を見かね、身代を子女に譲り渡した上で、東照宮参詣に出た仙台藩主に直訴を行い、捕らえられて七北田の仕置場で処刑されます。
時に天和2年(1682)のことといいますが、この直訴によって釘子村では年貢が軽減されたため、明治時代になってから八郎明神として祀られ、現在も集落を見下ろす高台に「昆野八郎右エ門神社」が鎮座しています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代のはじめ、陸奥国磐井郡釘子村(今の岩手県一関市の一部)は仙台藩の石川大和が治めていましたが、贅沢に耽り、調達金や御借上げなどとして実質的な重税を課していました。
肝煎の昆野八郎右衛門(こんのはちろうえもん)は農民の苦衷を見かね、不作による年貢減免を嘆願するものの聞き入れられず、ついに身代を子女に譲り渡した上で、仙台東照宮参詣に出た仙台藩主に直訴状を提出しようとしたところ、その場で警固の者に捕らえられてしまいます。
天和2年(1682)8月、昆野八郎右衛門は七北田の仕置場で処刑され、梟首されていた首は親族が請い受けて墓地に埋葬しますが、これ以降の釘子村では年貢が軽減され、穀納から銭納に改められたほか、石川大和もこの一件で角田に所替えとなったとされています。
明治時代になってから、地元では昆野八郎右衛門を義民として称えるため、大泉寺の前の集落を見下ろす高台に「八郎明神」として祀り、現在も「昆野八郎右エ門神社」として鎮座しています。
[なお歴史的事実と異なるとみられる点もそのまま記載しています。]
昆野八郎右エ門神社へのアクセス
名称
- 昆野八郎右エ門神社 [参考リンク]
場所
- 岩手県一関市室根町矢越地内
(この地図の緯度・経度:38.8966531, 141.422739) 備考
-
「昆野八郎右エ門神社」は、岩手県道18号本吉室根線の西100メートルほどの高台にあります。この県道には「大泉寺」と「昆野八郎右エ門神社」の入口を示す標柱が立っており、標柱の指す方向に「はちろうえもん」の植栽文字と長い石段の参道が見えるのですぐにわかります。
「仙台藩刑場跡」(38.3119,140.8819)は、宮城県道22号仙台泉線の杉の田交差点南100メートルほどの高台にあります。県道の歩道に「仙台藩刑場跡」の案内板があり、現地には題目塔や地蔵尊が建てられています。
参考文献
- 『東磐井郡誌』(岩手県教育会、1925年)
- 『東磐史学』第12号(東磐史学会、1987年)
- 『一関地方ゆかりの人物事典』(一関文化会議所、2015年)
- 『天和の義民昆野八郎右衛門伝-調査遍歴二十数年の記録-』(千葉幸右衛門、1991年、私家本)
- 日本の祭神事典: 社寺に祀られた郷土ゆかりの人びと