飯野八兵衛(飯野八兵衛・中垣善三郎墓碑)
挙母藩は寛延2年(1749)の国替えで内藤氏の領地となりましたが、築城などに伴う財政負担が農民に転嫁され、検地や年貢の取り立てが厳しく行われるようになります。
このため宝歴2年(1752)12月3日、挙母藩領内の飯野、迫、四郷、舞木(今の豊田市)の4か村の農民1240人あまりが江戸に向かい、途中で大部分は帰村するものの、飯野村の山本八兵衛以下はそのまま江戸に至り藩邸に直訴し、租税減免の要求を実現させます。
しかし一揆の頭取として捕らえられた飯野八兵衛らあわせて6名は、翌宝暦3年(1753)に挙母藩の刑場で打首となります。
その後城下では火の玉の出現や洪水などが相次ぎ、処刑された飯野八兵衛らの怨念によるものと噂されました。
地元では彼らを義民として墓や供養塔を建てるとともに、現在でも4月の命日などの折には仏事を行うなどして供養を続けています。
義民伝承の内容と背景
挙母藩は寛延2年(1749)の国替えで本多忠央から内藤政苗(まさみつ)の領地となりましたが、陣屋に代わって挙母城を築城するなどしたために財政負担が嵩み、これが農民に転嫁されて、検地や年貢の取り立て、城普請の人夫徴発などが厳しく行われるようになります。
特に領内の飯野村、迫村、四郷村、舞木村(今の愛知県豊田市)の4か村では、検地の際の縄延びがあまりにも大きく不公平だったといい、ついに宝暦2年(1752)12月3日には、これら飯野村はじめ4か村の農民1241名が越訴をするために江戸に向かいます。
途中の岡崎藩の説得で大部分は帰村するものの、飯野村で代々の庄屋を務める家系だった山本八兵衛(飯野八兵衛)をはじめとする305名はそのまま江戸に向かって藩邸に直訴し、租税減免や3年間の定免制などが認められます。
しかし一揆の頭取として捕らえられた飯野村の山本八兵衛・中垣善三郎、舞木村の永田清左衛門・永田半六、四郷村の小栗紋右衛門・山田林右衛門のあわせて6名は、江戸から挙母に送り返され、翌宝暦3年(1753)4月22日、挙母藩の仕置場で打首となります。
この一揆は「飯野八兵衛騒動」「芋八騒動」(飯野八兵衛のあだ名)といわれますが、その後城下では正体不明の火の玉が出現したり、矢作川の洪水が相次いで挙母城の築城が断念される(ただし2代藩主が場所を変更して挙母城(七州城)を築城)などしており、処刑された飯野八兵衛らの怨念によるものと噂されました。
地元では彼らを義民として墓や供養塔を建てるとともに、現在でも4月の命日などの折には仏事を行うなどして供養を続けています。
飯野八兵衛・中垣善三郎墓碑へのアクセス
名称
- 飯野八兵衛・中垣善三郎墓碑 [参考リンク]
場所
- 愛知県豊田市藤岡飯野町辻戸904-1
(この地図の緯度・経度:35.1955, 137.2032) 備考
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「飯野八兵衛・中垣善三郎墓碑」は、曹洞宗林宗寺の境内墓地の一角にある笠付の墓碑で、昔は戒名や俗名が刻まれていたらしいものの現在は風化しています。手前にも真新しい飯野八兵衛と中垣善三郎の墓がありますが、こちらは昭和になってから建立されたものです。本堂の左手に「義民飯野八兵衛墓所」の幟があるのですぐにわかります。
「小栗紋右衛門・山田右衛門供養塔」(35.13057, 137.16947)は、雲龍寺(愛知県豊田市四郷町山畑78)の山門前に建つ宝篋印塔で、その脇の「四郷村宝暦義民之碑」に解説が書かれています。
「永田清左衛門・永田半六供養塔」(35.14739, 137.16875)とされる宝篋印塔は、もとはさらに北の高台にあったといい、現在は明王寺(愛知県豊田市舞木町丸根164)の生垣沿いに自然石の墓碑とともに建っています。入口に猿投地域会議が設置した案内板があります。
ほかに「飯野八兵衛碑」(35.1952, 137.2055)が林宗寺に近い飯野秋葉神社(愛知県豊田市藤岡飯野町坂口887)境内にあり、これは大正時代に義民顕彰のために建てられたものです。
参考文献
- 豊田市史〈2〉近世 (1981年)
- 『三河拳母七州城沿革小史』(1923年の復刻)(渡邊善次 愛知県郷土資料刊行会、1985年)
- 『猿投町誌』(猿投町誌編纂委員会 猿投町役場、1968年)
- 『挙母藩史・挙母藩譜』(豊田史料叢書編纂会 豊田市教育委員会、1994年)
[参考文献が見つからない場合には]