義民のあしあと

栂野彦八




義民伝承地の概要

富山藩では振り売りによる行商を禁じ、魚市場に漁獲物を集めて増収を図ろうとしますが、これに四方町(今の富山県富山市の一部)の漁民らが反発して一揆寸前の事態となります。

町年寄の栂野彦八(とがのひこはち)は漁民たちを宥めて単身で郡奉行の屋敷に乗り込み嘆願しますが、受け入れられないと知るやそこで切腹して果てたため、このことが藩公に伝わり、行商の禁制が解かれることになりました。

町民らは栂野彦八を義民としてその石像を造り、後には都賀比古神社として祀り、やがて四方神社に合祀されて現在に至ります。

栂野彦八顕彰碑の地図

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名称 栂野彦八顕彰碑
所在地 富山県富山市四方一番町1979
備考 四方漁港近くの四方神社の社殿向かって右側の玉垣の内側に栂野彦八顕彰碑があります。
参考リンク [クリックして遷移]

  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

寛政年間の不漁が続いた時期、富山藩では漁民たちが振り売りにより行商をすることを禁じ、富山の魚市場に漁獲物を集めて増収を図ろうとします。

漁民たちの嘆願により、当初はこの禁制があっても振り売りが黙認されていましたが、郡奉行が湯原宗兵衛に交代して以降、一転して取締りが厳しくなり、禁制を犯す者があれば容赦なく天秤棒を取り上げて牢につなぐ取り扱いとなりました。

これによって生計の途がなくなった四方(よかた)町(今の富山県富山市の一部)の漁民らは反発し、300人ほどが城下に押しかけて一揆寸前の事態となりますが、四方町の町年寄の栂野彦八(とがのひこはち)が漁民たちを宥め、単身で郡奉行の屋敷に乗り込み嘆願を行います。

しかし嘆願が受け入れられなかったことから、文化3年(1806)12月19日、45歳の栂野彦八は郡奉行の屋敷内で切腹して果て、このことが藩公に伝わると、郡奉行は閉門となり、行商の禁制も解かれることになりました。

町民らは栂野彦八を義民として讃えてその石像を造り、街道筋に安置して富山城下への行商の行き帰りに伏し拝んだといいますが、後には「都賀比古神社」として祀られ、やがて明治時代になると村社の四方神社に合祀され、四方町魚市場の関係者が発起人となって「栂野彦八顕彰碑」も境内に建てられるなどしています。

現在でも例年8月18日は「栂彦祭り」の日となっており、平成18年には「栂野彦八翁二百年祭」も執り行われました。

参考文献・参考資料

  • 北国義民栂野彦八翁仁徳記
  • 『四方郷土史話』(布目久三 昭和56年)
  • 『四方町を救った町年寄栂野彦八翁』(栂野彦八翁二百年祭記念誌編纂委員会 平成18年)

リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されています)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱わない稀覯本や内部配布物などですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

 

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