義民のあしあと

原助弥(二斗八升神社)


江戸時代、松代藩では籾1俵あたりの玄米を2斗8升から3斗に引き上げて年貢の増徴を図ろうとし、善光寺平の名主らの減免の訴願も聞き届けられなかったため、これら名主らは合議の末に幕府に直訴することに決まります。
しかし後難を恐れて願書を書こうとする者がなく、水内郡高田村(現長野県長野市)の18歳の助弥が筆を執り、署名は傘連判状の形式にして首謀者を特定できないようにした上で幕府に提出されます。
これを「二斗八騒動」といい、延宝2年(1674)、松代藩では首謀者を詮索して高田村助弥、堀村伝兵衛、西尾張村吉兵衛の3名を鳥打峠で処刑しますが、このとき助弥は死に臨んで「二斗八だぞ」と叫んだといいます。
のちに年貢は2斗8升に戻されたことから、村人らは義民助弥に感謝し、天神社に偽装してその霊を祀ったといいますが、明治以降は公に顕彰されるようになりました。


目次
  1. 二斗八升神社の概要
  2. 二斗八升神社へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献


二斗八升神社へのアクセス

注意
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名称

二斗八升神社 [参考リンク]

場所

長野県長野市高田2435
(この地図の緯度・経度:36.6394, 138.2204)

備考

「二斗八升神社」は古牧児童館隣接の伊勢社の境内社である元天神社で、本殿の左奥にある小社にあたります。
善光寺の「海津千人塚」は本堂の右奥あたりに位置する三重の石塔で、前面に解説板があります。
「義民助弥之祠」は「二斗八升神社」北の県道58号近くの南高田公会堂(長野市高田1905番地)敷地内にある石祠で、前面道路の東数軒先の民家(石碑がある)が生誕の地と伝えられています。


義民伝承の内容と背景

江戸時代前期、松代藩は3代藩主・真田幸道が治めていましたが、このころ藩では籾1俵あたりの玄米を2斗8升から3斗に引き上げて年貢の増徴を図ろうとし、信濃国善光寺平の名主らは減免の訴願を行いますが聞き届けられませんでした。

このため善光寺平の名主らは善光寺に集まり合議の末、この窮状を幕府に直訴することに決まります。
しかし後難を恐れて願書を書こうとする者がなかったため、水内郡高田村(現長野県長野市)の18歳の原助弥が筆を執り、後ろの名主らの署名は傘連判状の形式にして首謀者を特定できないようにした上で幕府に提出されます。

これを「二斗八騒動」といい、松代藩では幕府からは年貢を再考するように命じられるものの、かえって筆跡をもとに首謀者を詮索し、高田村の原助弥らを捕縛します。
助弥は取調べの際に磨臼(すりうす)を持ってこさせ、籾を精米すると玄米2斗8升になることを実演して訴えの正しいことを証明したともいいますが、結局は一揆の首謀者として堀村名主の金丸伝兵衛、西尾張村吉兵衛とともに鳥打峠で処刑されてしまいます。

鳥打峠で打首となる際、助弥が「二斗八だぞ」と叫んだとおり、延宝2年(1674)中には年貢を2斗8升に戻す触書が出されたことから、村人らは義民助弥に感謝し、村の鎮守の境内に「天神社」に偽装してその霊を祀ったほか、善光寺境内にも石塔を建立して「二斗八の墓」と称したといいます(海津千人塚:ただし二斗八騒動のものではなく、それ以前の川中島藩主・森忠政による検地に反対して鳥打峠で磔刑にされた一揆犠牲者の供養塔ともいわれる)。

江戸時代にはほぼ口碑のみとなっていた高田村助弥、通称「二斗八様」の事績は、明治以降は公に顕彰されるようになり、新たに「義民助弥之祠」が建てられたほか、地元の「信濃毎日新聞」紙上でも紹介され、現在も地元の緑ヶ丘小学校、南部小学校、古牧小学校では児童劇「義民助弥物語『にとはちさま』」の公演を通じて語り継がれています。



参考文献・参考資料

  • 信濃農民史考 (1946年)
  • 『長野市郷土資料』(長野市教育会、1937年)
  • 『長野市誌』第8巻(旧市町村史編)(長野市誌編さん委員会、1997年)

書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社)はリンク先下部に記載があります。リンクがないものは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で収蔵している場合があります。

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