義民伊左久右

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義民伝承のある場所の概要

江戸時代前期の元和元年(1681)、旗本・清水政広の知行所だった三河国渥美郡中山村(今の愛知県田原市)では不作と不漁のために百姓が困窮し、大庄屋の川合伊左衛門と小庄屋の川合久右衛門らは、西山の立木の枝打ちと下草刈りを代官・結城兵左衛門に訴願するものの認められませんでした。
そこで2人は密かに江戸に上り、家老に訴えて許可を得ることに成功します。
ところが地元の百姓はこれに納得せず、立木を伐採して払い下げてもらわなければ不作不漁を補うことはできないと反発したため、やむなく再度江戸に上って領主に直訴します。
ところが代官は江戸に飛脚を走らせ、庄屋の訴えは百姓の総意ではなく私利私欲を図るためのものと讒言し、ために川合伊左衛門と久右衛門は斬罪とされてしまいます。
村人らは虫祭と称して2人のための施餓鬼供養を行い、義民「伊左久右」(いざきゅう)と崇めたといいます。


 伊左久右衛門の碑(西湖院)の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 伊左久右衛門の碑(西湖院)
所在地 愛知県田原市中山町寺脇99
リンク [関連サイトに遷移]
備考 県道423号線沿いに北松山西湖院の掲示板がありますので、この角の道路を入ると山門が見えます。山門の近くの塚状になった場所に「川合伊左衛門 川合久右衛門 之碑」と書かれた石碑があります。
  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。


解説

江戸時代前期の元和元年(1681)、旗本・清水権之助政広の知行所だった三河国渥美郡中山村(今の愛知県田原市)では、凶作と不漁のために百姓が困窮し、大庄屋の川合伊左衛門と庄屋の川合久右衛門、それに五人組頭の仁平、宗左衛門は、西山の立木の枝打ちと下草刈りを代官・結城兵左衛門に訴願するものの認められませんでした。

そこで川合伊左衛門と久右衛門の2人は密かに江戸に上り、家老・志満津五郎太夫に訴えて下草刈りなどの許可を得ることに成功します。

ところが地元の百姓はこれに納得せず、立木まで伐採して払い下げてもらわなければ凶作不漁を補うことはできないと反発したため、やむなく再度江戸に上って領主に直訴します。

ところが結城代官は江戸に飛脚を走らせ、庄屋の訴えは百姓の総意ではなく私利私欲を図るためのものと讒言し、ために川合伊左衛門のみ詮議のため江戸に留め置かれ、ひとり川合久右衛門のみが国許に帰ります。

川合久右衛門は待ち受けていた代官・結城兵左衛門によって妻子ともども捕らえられ、これを知った伊左衛門の妻が飛脚で江戸に知らせたため、江戸にいた伊左衛門も冤罪を晴らすために急遽帰村します。

川合伊左衛門は村人の不穏な様子を見て、ひとまず妻子を金蓮寺(現愛知県西尾市)に預け、自身は伊勢に逃れようとしますが、伊勢に渡る前に捕縛されて江戸に送られ、天和2年(1682)に斬罪、同じく川合久右衛門も中山代官所で斬罪に処せられます。

その後、邪魔者がなくなった中山では結城兵左衛門が年貢を私物化して苛斂誅求やまず、検地のために訪れた役人の岡部六郎をも殺害して証拠湮滅を図ります。

このため、岡部六郎の子・岡部健次郎と川合伊左衛門の子・川合丈之助の両名は、領主の清水権之助に願い出て仇討ちの許しを得て、本懐を果たします。

このことがあって以降、家老・志満津氏の下僕・定平の夢枕に川合伊左衛門・久右衛門が現れ、「村人の犠牲になったのに誰も供養せず無念なので虫に変化して作物を荒らす」と告げたことから、村人らは虫祭と称して2人のための施餓鬼供養を行い、村の地主神に祀って崇めたといいます。

このような伝説をもつ川合伊左衛門・久右衛門は今でも地元で「義民伊左久右」(いざきゅう)として知られていますが、『愛知県史』では小説的な要素が多く、真実と虚構の区別が付けにくいとしています。


参考文献

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リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されている)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

日本地図

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