村上平兵衛

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義民伝承のある場所の概要

宝暦3年(1753)、伊予国西条藩では年貢を引き上げて財政難を打開しようとしますが、これに反対する領内百姓らは加茂川原に集まり藩庁に強訴を行います(西条騒動、西条三万石騒動)。
西条藩は一揆を解散させた後、その頭取として郷村の村上平兵衛、宇高村の高橋孫兵衛、澤津村の高橋弥市左衛門の3人を捕らえて牢につなぎます。
村上平兵衛、高橋孫兵衛、高橋弥市左衛門の3人は死罪と決まり、翌年の宝暦4年、西条藩の梛木刑場で処刑され、その首は加茂川堤に晒されました。
その後百姓の負担は減らされたため、村人らは3人の位牌や墓碑を造って供養を行い、明治維新後には「三義民」として公にも顕彰されるようになりました。


 三義民の碑(宇高観音堂)の所在地や地図は次のとおりです。

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名称 三義民の碑(宇高観音堂)
所在地 愛媛県新居浜市宇高町二丁目6番
リンク [関連サイトに遷移]
備考 「三義民の碑」と「高橋弥市左衛門の墓」がある宇高観音堂の周辺は住宅が建て込んでいて、入口は狭くかなりわかりにくいものの、自治会がつくった「宇高観音堂 すぐそこ」の小さな看板があります。金光教新居浜東教会に観音堂の墓地が隣接しており目印となります。石碑と墓石にはそれぞれ新居浜市の史跡を示す標柱が建っています。
「高橋孫兵衛の墓」は宇高地蔵堂(33.9713918,133.3033741)裏手の墓地にあり、同じく史跡の標柱が建っています。こちらも入口がかなりわかりにくい上、両者ともまともな駐車場がありません。
「村上平兵衛の墓」は平兵衛神社の石祠(33.9683946,133.3249444)及び又野阿弥陀堂に隣接した墓地にあります。予讃線多喜浜駅の南側の急傾斜地にあり、入口道路の「又野山荘」の小さな看板が目印になります。


解説

宝暦3年(1753)、藩主の松平家が江戸定府で出費がかさむ伊予国西条藩では、松平頼淳(よりあつ、後に名を変えて紀州藩9代藩主・徳川治貞となる)の5代藩主襲封を契機として、この年に豊作だったことを幸いに、検見によって把握した作柄をもとに年貢の増徴を図り、財政難を打開しようとします。

村によって違いはあるものの、年貢率(免)は従来の三ツ五分(35パーセント)から領内平均四ツ五分と一気に高率になったため、新居郡50か村のうち16か村までの百姓が加茂川原に集まり、西条藩庁に強訴を行います(西条騒動、西条三万石騒動)。

このとき一揆の頭取となったのは郷村又野の村上平兵衛(又野平兵衛)、宇高村の高橋孫兵衛、澤津村の高橋弥市左衛門(弥一左衛門)の3人で、弥市左衛門が訴状をしたためたといいますが、一揆の解散後は西条藩に捕らえられ、牢につながれてしまいます。

その後寺院や庄屋などから命乞いの嘆願が出されるものの、村上平兵衛、高橋孫兵衛、高橋弥市左衛門の3人は死罪と決まり、翌年の宝暦4年の11月21日に梛木の刑場(今の西条市図書館などの公共施設がある一帯にナギの大木があったという。)で処刑され、その首は加茂川堤に晒されたといいます。

しかし百姓の負担は結果として減らされたことから、村人らは3人の位牌や墓碑を造って供養を行い、藩主も伊曽乃神社の境内に又野神社(鎮守神社)を建てて3人を祀ったほか、明治維新後には「三義民」として公にも顕彰されるようになりました。


参考文献

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リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されている)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱っていない稀覯本や内部配布物ですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

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