義民のあしあと

小池村勇七




義民伝承地の概要

文化元年(1804)10月、水戸街道の牛久宿(現在の茨城県牛久市)のために周辺農村から人馬を徴発する助郷(すけごう)が拡大されることになり、これに反対する農民が女化原(おなばけはら)で集会を開き、大規模な一揆(牛久助郷一揆、女化騒動)へと発展します。

この一揆は小池村(現稲敷郡阿見町)勇七および吉重郎、桂村(現牛久市)兵右衛門が中心となったもので、信太・河内両郡の55か村、6千人もの農民が参加し、助郷の拡大を幕府に願い出た牛久宿問屋の麻屋治左衛門や、これに与した久野村(現牛久市)和藤治、阿見村(現阿見町)組頭の権左衛門らの屋敷が打ち壊しに遭います。

この一揆は佐倉藩や土浦藩などからの出兵で鎮圧され、後に頭取として小池村勇七が獄門、同村吉重郎および桂村兵右衛門に遠島の判決が下りますが、3人は厳しい吟味を受けて既に獄中で亡くなった後でした。

現地には打ち壊しの被害を受けた麻屋治左衛門が3人の供養のために建てた道標が今でも残されています。

牛久助郷一揆道標の地図

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名称 牛久助郷一揆道標
所在地 茨城県稲敷郡阿見町阿見地内
備考 「助郷一揆道標」は、自衛隊霞ヶ浦駐屯地の南側、県道48号の「阿見一区南」交差点の角にあります。覆堂のなかに南向きに安置されており、県道の路側には阿見町教育委員会が建てた解説板があります。
また牛久助郷一揆の集会場となった女化神社(女化稲荷)は、化け狐の伝説をもつ神社で、龍ケ崎市の飛地(35.945975, 140.173261)に現在もあります。
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  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

水戸街道(水戸往還)の牛久宿(現在の茨城県牛久市)は、次の宿駅との間隔が長く人馬の継立てに困難を来していたため、牛久宿問屋の麻屋こと飯嶋治左衛門(麻屋兵助)は、周辺の農村から人馬を徴発する助郷(すけごう)の対象となる差村(さしむら)の拡大を幕府に対して願い出ます。

助郷の拡大が認められれば、遠方の村々は宿への行き帰りの手間で農作業にも支障が出ることから、実際には宿に資金を積み立てて利息を増やし、金銭で代わりの人馬を雇ってもらう方法をとるのが一般的でした。

経緯を記した『常久肝胆夢物語』(文政年間までに成立し僧侶の常久が見た夢として語られる)では、麻屋治左衛門の人馬請負人であった久野村(現牛久市)和藤治が、村々からこうした金銭を徴収して私腹を肥やすことを目的に画策したものとされています。

助郷差村の担税力を調査するために幕府から論所地改(じあらため)手代として鈴木栄助と太田幸吉の両名がまさに牛久宿に派遣されていた文化元年(1804)10月、対象の村々の高札場に「六拾歳以下拾五歳以上、男たるへきもの、女化原え可罷出」という匿名の張札がなされ、小池村(現稲敷郡阿見町)の百姓・勇七、同村の吉重郎、桂村(現牛久市)の兵右衛門が中心となって、女化原(おなばけはら)で農民たちの大規模な集会が開かれます。

このなかで桂村兵右衛門からは、牛久宿問屋の麻屋治左衛門をはじめ、久野村和藤治、阿見村(現稲敷郡阿見町)組頭の権左衛門が馴れ合って私欲のため増村したのだから居宅を打ち壊すべしとの提案がなされ、ついに信太・河内両郡の55か村、6千人もの農民からなる大規模な助郷一揆が勃発します(牛久助郷一揆、女化騒動)。

一揆勢は女化稲荷に祈願の上で久野村の和藤治宅、麻屋治左衛門宅と阿見村権左衛門宅などを次々に打ち壊して気勢を上げるものの、幕府は佐倉藩に命じて藩兵を差し向け、その他土浦藩なども藩兵を出して鎮圧に当たります。

牛久宿の周辺は仙台藩の飛地や旗本の知行地などが入り組んでおり、対応が難しい土地柄ではあったものの、藩兵が鎮圧に向かうと知った一揆勢は、もともと公儀と敵対する意図まではなかったため、実際には戦わずにそれぞれの村々に退散して騒動は収まります。

その後幕府からは勘定書留役が派遣され、徒党を組んだ村々の捜索が行われて多数の農民が捕らえられ、勘定奉行管轄下にあった筑波郡角内新田の人足寄場(現つくば市上郷の角内農村集落センター付近)に新設された牢屋に入れられたといい、そのうち小池村勇七、岡村吉重郎、桂村兵右衛門は江戸伝馬町の牢屋に送られ、厳しい吟味の末に文化2年(1805)正月中には3人全員が獄死しています。

幕府勘定奉行は「存命ニ候ハヽ」として小池村勇七に獄門、吉重郎および桂村兵右衛門に遠島を申し付けるものの、既に彼らは亡くなっており、他に一揆に加担した村々の百姓も積極・消極の区別なく過料の支払いを命じられ、増助郷は結局免除されずに10年間の期限付きとなって幕を下ろしました。

この助郷一揆の発端となった差村拡大を幕府に願い出た牛久宿問屋の麻屋治左衛門は、後に街道筋に「南 じつこく(実穀) こいけ(小池) おかみ(岡見) りうがさき(龍ケ崎)」などの方位と地名とともに、小池村勇七、岡村吉重郎、桂村兵右衛門の3人の戒名と俗名を彫った異例の道標を建てて、その菩提を弔っています。

参考文献・参考資料


リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されています)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱わない稀覯本や内部配布物などですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

 

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