義民のあしあと

板橋政右衛門・石川政七(圃租法変更紀念碑)



江戸時代の烏山藩では畑作物への年貢を米納する村と金納(永納)する村とに分かれていましたが、幕末の横浜開港以降の米価高騰によって、米納の村では実質的に金納の8倍もの負担となってしまいました。
そこで困窮した農民たちは、惣代を立てて烏山藩や新政府の弾正台などに畑作永納の訴願活動を行いますが、これは実現せずにかえって大沢村の板橋政右衛門、上境村の石川政七が流刑となってしまいます。
のちに烏山の宇都宮県への編入や地租改正などによって負担は軽減されることになりますが、往時の苦労を偲んで明治35年(1902)には宮原八幡宮の境内に「圃租法変更紀念碑」が建てられました。


目次
  1. 圃租法変更紀念碑の概要
  2. 圃租法変更紀念碑へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献



圃租法変更紀念碑へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

圃租法変更紀念碑 [参考リンク]

場所

栃木県那須烏山市宮原地内
(この地図の緯度・経度:36.657140, 140.168902)

備考

「圃租法変更紀念碑」は、宮原八幡宮の拝殿手前の左側にあります。烏山いろはかるたの「(ね)年貢訴の悲しい碑がたつ八幡宮」の看板と下野烏山農民一揆記念会が建てた案内板があるのですぐにわかります。、


義民伝承の内容と背景

江戸時代の烏山藩の領内には、畑の収穫物に対する年貢を米で納付する決まりとなっている村々が26か村あり、ほかの村々は貨幣での金納(「永納」と呼ばれる)でしたが、もともと稲作には向かず畑地が多い土地柄の場合、米納では逆に農民の負担を大きくするおそれがありました。

特に幕末の横浜開港後の物価騰貴の影響を受けて米価も高騰すると、米納の村々ではいったん年貢に相当する米を買って納めることから農民の支出は膨大で、金納で済ませた場合に比べて8倍もの負担となってしまいました。

明治2年(1869)6月に烏山藩主の大久保忠順(ただより)が朝廷に版籍奉還を行うと、中井上村里正(村長)の見目藤内が中心となって、藩庁に対して年貢の米納から金納への変更が嘆願されますが聞き入れられませんでした。

その後も負担に耐えかねた農民たちが大沢村の板橋政右衛門、上境村の石川政七らを惣代に立てて、新政府の弾正台や江戸藩邸などに訴願を行いますが、これも実ることなく板橋政右衛門、石川政七の両名は流刑となり、過酷な服役生活の末、明治10年(1879)および翌年にかけてようやく釈放されます。

この間、明治4年(1871)7月に廃藩置県が行われて烏山藩は廃藩となり、新たに置かれた烏山県も11月には宇都宮県に編入され、明治6年(1873)以降の地租改正によって租税制度も全国的に平準化されるなど、明治初期のめまぐるしい変化のなかで、結果としては畑作永納が実現することになりました。

地元では彼らを顕彰するために醵金して、明治35年(1902)に「圃租法変更紀念碑」を宮原八幡宮の境内に建て、その顛末は「圃租法変更記念碑実記」として残され、後者は那須烏山市の指定文化財となっています。



参考文献・参考資料


リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。



武士に「もの言う」百姓たち―裁判でよむ江戸時代
渡辺 尚志 (著)
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