圃租法変更紀念碑(板橋政右衛門と畑方永納一件)

圃租法変更紀念碑 義民の史跡
貢租の金納化に尽力した先人たちの記念碑
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明治2年(1869)、下野国那須郡大沢村(今の栃木県那須烏山市)の板橋政右衛門らは、畑年貢の金納を求めて烏山藩や新政府の弾正台に訴願し、流刑に処せられました。その後の地租改正により結果として目的を果たしたことから、明治35年(1902)に有志が「圃租法変更紀念碑」を建てて政右衛門らの功績を顕彰しました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の烏山藩の領内には、畑の収穫物に対する年貢を貨幣での金納(「永納」と呼ばれる)とする村々がある一方、米で納付する決まりとなっている村々も26か村ありました。もともと稲作には向かず畑地が多い土地柄の場合、米納では逆に農民の負担を大きくするおそれがありました。

特に幕末の横浜開港後の物価騰貴の影響を受けて米価も高騰すると、米納の村々ではいったん年貢に相当する米を買って納めることから農民の支出は膨大で、金納で済ませた場合に比べて8倍もの負担となってしまいました。

明治2年(1869)6月に烏山藩主の大久保忠順(ただより)が朝廷に版籍奉還を行うと、那須郡中井上村(今の那須烏山市)里正(村長)の見目藤内が中心となって、藩庁に対して年貢の米納から金納への変更が嘆願されますが、聞き入れられることはありませんでした。

その後も負担に耐えかねた農民たちが那須郡大沢村の板橋政右衛門や同郡上境村(今の那須烏山市)の石川政七らを惣代に立てて、新政府の弾正台や江戸藩邸などに訴願を行いますが、これも実ることなく、板橋政右衛門・石川政七の両名は「実ナキ文書ヲ理匱ニ投シ、越訴シタル罪」によって流刑に処せられ、過酷な服役生活の末、明治10年(1879)から翌年にかけてようやく釈放されました。

この間、明治4年(1871)7月に廃藩置県が行われて烏山藩は廃藩となり、新たに置かれた烏山県も11月には宇都宮県に編入され、明治6年(1873)以降の地租改正によって租税制度も全国的に平準化されるなど、明治初期の目まぐるしい変化のなかで、結果としては畑作永納が実現することになりました。

そこで地元では彼らを顕彰するために資金を募り、明治35年(1902)に宮原八幡宮境内に「圃租法変更紀念碑」を建立しました。また、この間の顛末は八幡宮の雑掌が出所後の板橋政右衛門の証言を口述筆記した『圃租法変更記念碑実記』として残され、現在は那須烏山市の指定文化財となっています。

参考文献

『烏山町史』(烏山町史編集委員会 烏山町、1978年)
『明治百年野州外史』(村上喜彦 下野新聞社、1969年)
『栃木県史』史料編 近世7(栃木県史編さん委員会編 栃木県、1978年)

圃租法変更紀念碑の地図とアクセス

名称

圃租法変更紀念碑

場所

栃木県那須烏山市宮原地内

備考

東北自動車道「矢板インターチェンジ」から車で35分。宮原八幡宮の拝殿手前にあり、烏山いろはかるたの「(ね)年貢訴の悲しい碑がたつ八幡宮」の看板と下野烏山農民一揆記念会が建てた案内板が立っています。

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