義民のあしあと

諸岡太左衛門(諸岡太左衛門の墓)


江戸中期の頃の上総国天羽郡金谷村(今の千葉県富津市)は旗本・白須甲斐守政雍(まさちか)の知行地でしたが、その下僚らは領民に重税を課し、その上に鉈止めと称して入会地での薪炭の採取を禁じたため、百姓の生活は困難を極めました。
名主らは地元で嘆願を行うものの聞き届けられなかったため、天明5年(1785)、金谷村の百姓・諸岡太左衛門が同村の惣兵衛とともに江戸の白須邸に赴き門訴を行い、鉈止めの一件などは旧に復しましたが、入牢の末に天明6年(1786)、45歳で獄死してしまいます。
のちに赦免されたことから、菩提寺の華蔵院に諸岡太左衛門の墓が営まれ、今では富津市の史跡として指定されています。


目次
  1. 諸岡太左衛門の墓の概要
  2. 諸岡太左衛門の墓へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献


諸岡太左衛門の墓へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

諸岡太左衛門の墓 [参考リンク]

場所

千葉県富津市金谷2413
(この地図の緯度・経度:35.16817519, 139.82418210)

備考

華蔵院は浜金谷駅のすぐ裏手にあり、境内の「諸岡太左衛門の墓」には囲いが設けられ、富津市教育委員会の史跡案内板が後方に掲示されています。


義民伝承の内容と背景

江戸中期の頃の上総国天羽郡金谷村(今の千葉県富津市)は旗本・白須甲斐守政雍(まさちか)の知行地でしたが、「天明の飢饉」のさなかの天明4年(1784)には年貢8石増が命じられ、翌天明5年(1785)には「鉈止め」「鎌止め」と称して鋸山の入会地で樹木を伐採し薪炭を採取することが禁じられたため、百姓の生活は困難を極めました。

金谷村の名主らは地頭所において嘆願を行うものの聞き届けられなかったため、天明5年(1785)、金谷村の百姓・諸岡太左衛門が同村の惣兵衛はじめ85名で江戸麹町の白須邸に押しかけ、役人の横暴を領主に直接訴えます。

その結果として「鉈止め」の一件などは旧に復しましたが、徒党を組んで門訴をした罪で入牢の末、翌年の天明6年(1786)、諸岡太左衛門は45歳で獄死します。

同年3月には勘定奉行・桑原盛貞から、諸岡太左衛門には遠島、惣兵衛には居村及び江戸払いの刑が申し渡され、同行の惣兵衛はとりあえず釈放され、他の百姓も手鎖や過料として重刑は回避されましたが、太左衛門はすでに亡くなった後でした。

諸岡太左エ門の罪はのちに赦免されて供養が認められたことから、菩提寺の華蔵院にその墓が営まれ、今では富津市の史跡として指定されています。



参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社)はリンク先下部に記載があります。リンクがないものは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で収蔵している場合があります。

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