義民のあしあと

吉田長次兵衛




義民伝承地の概要

江戸時代中期、陸奥国磐城平藩(今の福島県いわき市)は譜代大名の内藤家の領地でしたが、折からの財政難を課税強化で領民に転嫁したため、元文3年(1738)には2万人の百姓が城下に押し寄せ、町会所などの打毀しを行った上、年貢関連の書類を焼却するという「磐城平元文一揆」が勃発します。

一揆勢はきわめて統制がとれていたため藩でも為す術がなく、番頭・赤井喜兵衛が交渉にあたり、百姓の要求をほぼ認めるかたちで一旦は沈静化します。

その後、会所に呼び集められた一揆の頭取たちは藩によって捕らえられ、柴原村長治兵衛、中神谷(なかかべや)村武左衛門が死罪獄門の上7日間晒し、他にも死罪、永牢、追放などの処罰を受けたものが多数に上り、当初の約束も反故にされてしまいます。

この一件がもとで内藤家は延享4年(1747)に日向国延岡に転封され、その後一揆の頭取らが処刑された鎌田河原には村人らによって供養のための「首切り地蔵」(河原子地蔵堂)が建てられました。

首切り地蔵の地図

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名称 首切り地蔵
所在地 福島県いわき市平鎌田町地内
備考 「首切り地蔵」(河原子地蔵堂)は国道6号の平大橋と並行して夏井川に架かっている人道橋の西詰にあり、ちょうどここから先が自転車を除く車両通行禁止となっています。堂には「河原子地蔵堂」の額が掲げられ、手前に由来を記した案内板があります。

対岸の「五霊神社」は福島県いわき市平鎌田岸138番地(37.0566636,140.9065847)にあり、いわき短期大学・東日本国際大学のキャンパスも立地する小高い丘の上です。
大学正面の道路に接する参道の石段下には「元文義民之霊場」の石標が建っています。

参考リンク [クリックして遷移]

  • 「備考」欄に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合には、検索ボックスにその値をコピーして入力(例えば「35.689634, 139.692101」と入力)すれば、該当する場所の地図が表示されます。
  • 地元の伝承が歴史的事実とは異なるとみられる場合もあえてそのまま記載することがあります。

義民伝承の内容・歴史的経緯

江戸時代中期、陸奥国磐城平藩(今の福島県いわき市)は譜代大名の内藤家の領地でしたが、家老の松賀族之助(泰閭)・松賀伊織(孝興)親子が専横を極め藩主毒殺と主家乗っ取りを目論んだことに端を発する一連の「小姓騒動」による混乱に加え、日光参宮本役や渡良瀬川普請などの幕府に対する出費の増大、江戸藩邸の火災、洪水による米の減収などが相次ぎ、深刻な財政難に見舞われます。

磐城平藩ではこの事態を課税の強化によって乗り切ろうとし、郡代・川崎刑部の指揮のもとで、100石につき金1両3歩の小物成歩役金をはじめとして、清酒造役・紺屋役・鍛冶役・捧手振役・質屋役などの諸役、茶・木綿・麻・たばこなどの運上金といった、あらゆるものを課税客体として収奪を図る態度に出ます。

こうしたなか、享保年間には既に荒田目村喜惣次らが江戸の目安箱に投書して郡代・川崎刑部を訴えるなどの動きをしていますが、元文3年(1738)にはついに領内百姓の不満が爆発し、磐城4郡181か村の2万人(8万人までの諸説あり)が城下に押し寄せる全藩一揆が勃発します。

この一揆は「磐城平藩元文一揆」「元文三年平藩一揆」「磐城騒動」などと呼ばれますが、柴原村名主・吉田長治兵衛、中神谷(なかかべや)村名主・佐藤武左衛門らが頭取となり、上着として蓑を着用する、100人1組で行動し鉄砲の扱いに慣れた者を含める、5日分の食料を持参する、藩の境界に人員を配置して他藩からの加勢を防ぐなどの申し合わせをした、きわめて統制のとれたものでした。

一揆勢は南北の各口で手分けして一斉に平城下に押し寄せ、牢屋を襲撃して永牢になっていた荒田目喜惣次を救出するとともに、田町会所を打毀し年貢関係の書類を焼却し、藩に対しては本年貢の2厘5分引き下げや歩役金その他諸役の免除などを要求する願書を提出します。

藩でも百姓に鉄砲を奪われ城内の兵糧も尽きるなど為す術がなく、番頭・赤井喜兵衛が交渉にあたり、百姓の要求をほぼ認め、保留の項目も喜兵衛が江戸に出向いて藩公に取り次ぐかたちで一旦は沈静化します。

その後、会所に呼び集められた一揆の頭取たちは、騙し討ちで藩によって捕らえられ、柴原村長治兵衛・中神谷村武左衛門は鎌田川原において打首七日曝し、藤間村理右衛門・平久保村与惣治・好間村理三郎・八茎村五三郎・荒田目村伊三郎は鎌田川原において打首三日曝し、高久村甚五兵衛は牢屋にて打首、荒田目村喜惣次も曲田にて打首となり、他にも永牢、追放などの処罰を受けた者があったほか、当初の約束も反故にされてしまいます。

いっぽう藩士についても論功行賞と処分をあわせた大掛かりな人事異動があり、赤井喜兵衛は褒美銀をもらうものの依願免職で嫡子に家督を譲り、歩役金を百姓に課した勝手方用人の三松金左衛門や勘定頭の中根喜左衛門は御役御免になるなどしています。

この一件がもとで時の藩主・内藤正樹も延享4年(1747)に陸奥磐城平7万石から日向延岡7万石に転封され、その後一揆の頭取らが処刑された鎌田川原には村人らによって供養のための「首切り地蔵」(河原子地蔵堂)が建てられました。

また「首切り地蔵」から見て夏井川の対岸にあたる五霊神社は、もとは鎌田館主・鎌田七郎清氏が備中国から吉備津明神を勧請したという謂われのある鎮守社ですが、その境内には昭和25年(1950)に元文義民顕彰会によって「元文義民之碑」が建てられています。

参考文献・参考資料


リンクがなく書誌情報(リンク先のページ下部にISBNコード、発行年、出版社などが明示されています)がわからない参考資料は、一般書店で取り扱わない稀覯本や内部配布物などですが、国立国会図書館で貸出対応をしている可能性があります。

 

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