義民のあしあと

松平辰蔵(滝脇村石御堂)



天保7年(1836)、三河国加茂郡では凶作や米価高騰をきっかけとして年貢軽減などを求める一揆が勃発します。
下河内村(今の愛知県豊田市)の辰蔵を頭取として、滝脇村(同市)の石御堂に集まった農民らが鎌や斧を手に取り竹筒を吹き鳴らして気勢を上げ、一揆に参加しなかった村の庄屋の屋敷、米屋、酒屋などを次々に打ち壊しながら、松平一帯を巻き込んで足助を経て挙母城下に押し寄せ、参加人数は1万人以上となりました。
この一揆は後に「加茂一揆」「鴨騒動」などと呼ばれますが、役人と交渉した際に年貢率を妥協した辰蔵自身の屋敷も打ち壊しに遭うなど終盤に入ると統制が乱れた上、挙母城下では藩兵の出動で鉄砲を撃ちかけられ死傷者が出たことから潰走し、頭取の辰蔵らは捕らえられてしまいます。
辰蔵は江戸に送られ、獄門の判決が出されるものの、処刑される以前に牢死し、他にも遠島や過料など多数が処罰を受けました。
国学者の渡辺政香が記した『鴨の騒立』では、この一揆の目的を「世直し」だとしており、現在も辰蔵の墓や石御堂が現地に残っています。



目次
  1. 滝脇村石御堂の概要
  2. 滝脇村石御堂へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

滝脇村石御堂へのアクセス

名称 滝脇村石御堂
場所 愛知県豊田市滝脇町石御堂地内
(地図の緯度・経度:35.035894, 137.246027)
備考
「石御堂」は豊田市立滝脇小学校沿いの道路をさらに北に行ったところにあり、いずれにしても道路沿いで「石御堂観世音菩薩」の額と史跡案内板があるのですぐにわかります。
ただし、以前は旧道沿いにあったものが標高が若干高い新道沿いに移転しているので、もとの位置ではないということです。

「辰蔵の墓」は石御堂から5キロ北西の豊田市九久平町地内で、凡その緯度経度では(35.0551, 137.2162)付近ですが、山中の墓地の奥まった場所のため正確ではありません。
駐車場がある「松平コミュニティセンター」(豊田市九久平町寺前16)から100メートル歩いて、和菓子屋の「志満屋九久平本店」(豊田市九久平町簗場65)の脇の急なコンクリートの階段を登り、「松平こども園」の敷地に至る手前の小径を左折して進んだ墓地の奥です。
正面は夫婦の法名が彫られ、墓石の右脇に「松平辰蔵」と俗名が彫られています。
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注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

義民伝承の内容と背景

天保7年(1836)の9月21日、三河国加茂郡では暴風雨による凶作や米価高騰をきっかけとして年貢軽減などを求める一揆が勃発し、下河内村(今の愛知県豊田市)の辰蔵らが頭取となり、滝脇村(同市)の石御堂に農民ら数十人が集まり、鎌や斧を手に取り竹筒を吹き鳴らして気勢を上げます。

辰蔵の先祖は徳川家康から松平姓を名乗ることを許された武士で、帰農して下河内村に土着したとされており、辰蔵自身は大工を称し、実際には農閑期に割木業を営む生活をしていたと見られています。

この一揆は後に「加茂一揆」「鴨騒動」などと呼ばれますが、滝脇村など一揆に参加を拒んだ村々の庄屋の屋敷が打ち壊されたことから、後難を恐れて周辺の村々からの加勢は膨らみ、最終的には加茂郡・額田郡を合わせて247か村、1万3千人ほどが参加する三河地方最大の一揆となりました。

一揆勢は松平地区一帯を巻き込み、足助地区を経て挙母城下まで、沿道の米屋、酒屋などを次々に打ち壊しながら進み、年貢の金納率や物価の引き下げ、強制的な頼母子講の休止などを要求します。

しかし、途中で辰蔵らが奥殿藩や旗本領の代官と交渉した際、当初は年貢の金納相場を1両で8斗とするよう要求していたたところを1両6斗で妥協したため、これが他の一揆参加者の怒りを買って辰蔵自身の屋敷も打ち壊しに遭うなど、終盤に入ると統制が乱れて打ち壊しそのものが目的化してしまいます。

また、地域的に旗本領や挙母藩領などの領地が複雑に入り組んでいたことが当局の取締のネックになっていたところ、一揆勢が挙母城下に押し寄せる頃には、挙母藩のほか岡崎藩、西尾藩、尾張藩、吉田藩が出兵し、特に挙母藩は矢作川越しに鉄砲を射掛けて死傷者が出たことから勘八山まで潰走を余儀なくされます。

一揆勢は足助で再び蜂起して打毀しをするものの、幕府の赤坂陣屋の指示によって岡崎藩兵が足助まで越境したことで多数の農民が捕らえられ、25日までに事態は終息に向かいます。

その後、天保9年(1838)には江戸送りになった辰蔵と九久平村仙吉に評定所から獄門との判決が下されますが、すでに牢死した後であり、九久平村繁吉や松平郷柳助らも遠島となるものの江戸送りの前に赤坂陣屋で首吊り自殺、他に過料などの処罰を受けた百姓が多数にのぼりました。

水戸藩主の徳川斉昭(烈公)が将軍・徳川家慶に提出した献策書『戊戌封事』のなかでは「近年参州甲州の百姓一揆徒党を結ひ又ハ大坂の奸賊容易ならざる企仕」(原文は変体仮名)として、大塩平八郎の乱や甲州の郡内一揆に並べて危機意識を顕わにしています。

一揆の顛末は『参河誌』を著したことでも知られる国学者にして寺津八幡宮神官の渡辺政香が『鴨の騒立』(かものさわだち)としてまとめており、このなかでは辰蔵が「天下の御百姓」としての自負をもって「世直の祭」を目的に企てたことで、役人の取調にも「上がゆがむと下は猶ゆがみます」と平然と政治批判を展開する様子が描かれています。

一揆の舞台となった滝脇村石御堂は当時の場所からは移動していますが現在も豊田市内に残り、また妻・りきの法名とともにその名が刻まれた下河内村辰蔵の墓も松平家の墓地にあります。


参考文献・参考資料


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