義民のあしあと

下田隼人(下田隼人翁碑)

小田原城下の大稲荷神社境内にある下田隼人を祀る「錦織神社」


江戸時代のはじめ、小田原藩では財政悪化を埋め合わせるため領内の総検地を実施するとともに、新税として麦租を導入しようとします。
これに対して相模国足柄上郡関本村(今の神奈川県南足柄市)名主の下田隼人は、一揆を起こそうとした百姓らを宥め、藩主の稲葉正則に対して直訴を行います。
これにより麦租は撤回されますが、下田隼人は徒党を組んで強訴に及んだとして死罪を言い渡され、万治3年12月23日に処刑されます。
明治以降に下田隼人は義民として再評価され、大正時代になって、下田隼人の菩提寺である龍福寺に「下田隼人翁碑」が建てられました。


義民伝承の内容と背景

江戸時代はじめの寛永9年(1632)、幕府老中で将軍・徳川家光乳母の春日局の子でもあった稲葉正勝が下野真岡から相模小田原へと入封します。

ところが翌年の寛永10年(1633)にはマグニチュード7クラスという寛永小田原地震が発生し、小田原城の修復や城下町の復興に多大な経費がかかり、小田原藩の財政は逼迫します。

このため、小田原藩では万治元年(1658)から2年にかけて領内で検地(「万治の惣検地」)を行うとともに、これまでになかった麦に対する課税として麦租を導入し、財政悪化の埋め合わせをしようとしました。

足柄上郡・下郡148か村の百姓は、これに対して一揆を起こそうとしますが、足柄上郡関本村(今の神奈川県南足柄市)名主だった下田隼人は百姓らを宥めるとともに、2代目の藩主・稲葉正則の行列に対して駕籠訴を行います。

この下田隼人の直訴により麦租は撤回されましたが、徒党を組んで強訴に及んだ一揆の頭取とみなされ、入牢の末に死罪及び跡式欠所を申し付けられ、万治3年(1660)12月23日に小田原城下の牢屋町の刑場(今の小田原市浜町あたり)で処刑されるとともに、田畑や屋敷などの財産も没収されてしまいます。

処刑後、下田隼人の遺骸は関本村の龍福寺住職・重阿上人が引き取って埋葬し、相阿弥陀仏の法名を付けて仮の墓碑がつくられました。

また、生前の下田隼人が小田原城下に出向く際には須藤町(今の小田原市栄町あたり)にある宿を決まって利用していたことから、須藤町に鎮座する錦織神社(大正時代になってから現在の大稲荷神社の境内に遷座)にも祭神として密かに祀られました。

明治以降になると大々的に義民として再評価され、大正11年(1922)になってから菩提寺の龍福寺に有志による「下田隼人翁碑」が建てられ、法学者や枢密院議長として有名な一木喜徳郎が題額を記しています。


下田隼人翁碑へのアクセス

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文中に緯度・経度の記載がある場合は、値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索すれば、その場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

下田隼人翁碑 [参考リンク]

場所

神奈川県南足柄市関本1040
(この地図の緯度・経度:35.322387, 139.104561)

備考

「下田隼人翁碑」は、菩提寺の龍福寺境内にあり、位置的には県道78号からの進入路を入って本堂の右手のほうです。基壇に「相阿弥」と刻んだ小さな墓碑が埋め込まれていますが、「下田隼人翁碑」そのものは本堂の高さを圧倒するほどの大きなものです。

「錦織神社」(35.25969, 139.15505)は、大稲荷神社(だいいなりじんじゃ・神奈川県小田原市城山1-22-1)の境内社として本殿の右隣に鎮座し、錦織大神・下田隼人命が合祀されています。社頭に由来書もあります。



参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。

関東地方 下田隼人