義民のあしあと

藤江監物(藤江監物父子墓所)


日向国延岡藩では、享保9年(1724)、家老の藤江監物が郡奉行の江尻喜多右衛門に命じて出喜多村(今の宮崎県延岡市)の灌漑事業に着手しますが、難工事で出費がかさむ中、軍資金を流用して私腹を肥やしているとの讒言があり、嫡男3人とともに牢に入れられてしまいます。
享保16年(1731)、劣悪な環境の中で長男の藤江図書が牢死し、藤江監物もその後を追い絶食して果てますが、工事は藤江監物の遺志を継いだ江尻喜多右衛門によって進められ、監物没後3年が経った享保19年(1734)に完成を見ました。
藤江監物はこの水田灌漑事業に恩義を感じた村人らによって出北観音堂に祀られたほか、牢があった舟の尾など複数の場所に墓も建てられています。


目次
  1. 藤江監物父子墓所の概要
  2. 藤江監物父子墓所へのアクセス
  3. 義民伝承の内容と背景
  4. 参考文献

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藤江監物父子墓所へのアクセス

注意
文中に特定の場所の緯度・経度が記載されている場合は、検索ボックス内に値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索ボタンをクリックすれば、該当する場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

藤江監物父子墓所 [参考リンク]

場所

宮崎県西臼杵郡日之影町七折地内
(この地図の緯度・経度:32.62907, 131.423156)

備考

「藤江監物父子墓所」は、付近を走る国道218号沿いの「カフェ・ルジェトア」(宮崎県西臼杵郡日之影町七折2195-イ)道路挟んで反対側の「藤江監物史跡入口」「藤江監物父子の墓及び牢獄跡入口」の標識を目印にします。
ここからまっすぐ北方向に300ロートメほど進み、突き当たりを右折して道なりに行くと、墓所に至る石段があり、左右2つの墓石や古い手水鉢、日之影町教員委員会の解説板などがあります。
舗装されてはいるもののかなり幅員が狭い道路で、yahooやgoogleのマップでは拡大しても詳細が表示されません。【追記:現在はgoogle地図で表示されます。】

菩提寺の「昌竜寺」(宮崎県西臼杵郡日之影町七折舟ノ尾2369-1、緯度経度 32.628649, 131.420475)も国道からの入口は同じですが、途中のカーブを北方向に行かずに西方向に行くルートを進んだ丘陵地の上にあります。
「藤江監物父子墓所」もいったん「昌竜寺」まで移動してから門柱前の公道を北に200メートル弱進み、「舟の尾代官所跡」「藤江監物父子の墓」の分岐を示す別の白い標識が現れてから標識通りに自動車で進入するほうがわかりやすいかもしれません。

「監物父子獄死牢跡」(緯度経度 32.631192,131.421093)は「昌竜寺」の門柱を起点として北方向に400メートル弱ほど道なりに進んだ先にあり、民家に入る側道沿いに教員委員会が建てた解説板と「藤江監物父子終焉之地」の石碑が建っています。

ほかに関連の史跡としては、延岡の市街地に「出北観音堂」(宮崎県延岡市出北3丁目31-20、緯度経度 32.572244, 131.679824)があり、厨子のなかに位牌が納められています。

東京の「晴雲神社」(緯度経度 35.688117,139.785328)は、東京都中央区日本橋浜町2丁目11-6所在、警視庁久松警察署隣の笠間稲荷神社東京別社社殿内に祀られる石祠です。



義民伝承の内容と背景

日向国延岡藩領内の出喜多村(今の宮崎県延岡市)では、「雲雀野」と揶揄された荒れ地の農業用水確保をたびたび庄屋から藩に訴えるものの進展がなく、享保9年(1724)、家老の藤江監物によってようやく採択されます。

藤江監物は灌漑事業に詳しい郡奉行の江尻喜多右衛門を抜擢し、近くの五ケ瀬川から取水するために岩熊井堰や出北用水路の開削に着手しますが、洪水で破堤するなど工事は困難をきわめ、出費も7万両にまでかさむようになります。

このような中で、筆頭家老の牧野斎宮は、藤江監物が軍資金を流用して私腹を肥やしていると藩主・牧野貞通に讒言したため、享保16年(1731)に藤江監物とその嫡子3人が捕らえられ、七折村(今の西臼杵郡日之影町)の船の尾代官所の近くに新造された牢に幽閉されてしまいます。

クスノキの生木で造られた牢は樟脳の臭いがたちこめる劣悪な環境で、体が弱かった長男の藤江図書(ずしょ)がまず牢死し、これに憤った藤江監物も絶食して、この年の旧暦8月18日に45歳で亡くなります。

その後、藤江監物の遺志を継いだ江尻喜多右衛門が身命を堵して工事を進め、監物没後3年が経った享保19年(1734)、延長12キロ(3里)にわたる出水用水路などが完成を見ました。

また、藤江監物の公金流用疑惑も事実無根であったことが判明したため、次男の藤井多治見と三男の川崎右膳は罪を赦されて出獄し、改めてそれぞれ100石と50石の知行が宛てがわれます。

この水田灌漑事業によって、工事前に150石だった米の収量が755石まで増加したといい、恩義を感じた村人らによって、藤江監物と江尻喜多右衛門の両名が「出北観音堂」に祀られたほか、藤江家菩提寺の雲峰山昌竜寺にも「監物堂」が建てられています。

「藤江監物父子の墓」は、牢があった舟の尾の昌竜寺近くをはじめとして、本東寺(延岡市松山町1133)、常楽寺(延岡市野地町4-3840)など複数の場所に建てられており、特に舟の尾のものは牛馬の病気に御利益があるとして農民が墓石を削って持ち帰ったたため、かなり不自然に摩耗しています。

ほかにも笠間稲荷神社東京別社の「晴雲神社」(牧野家が常陸国笠間藩に国替えしたため)など、藤江監物は郷土の義人としてさまざまな場所で祀られ、大正13年(1924)には従五位の位階を追叙されているほか、現在も土地改良区の役員が命日にあわせて墓所を参拝するなどして供養が続けられています。



参考文献・参考資料


書誌情報(ISBNコード・著者・発行年・出版社)はリンク先下部に記載があります。リンクがないものは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で収蔵している場合があります。

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